第1章5節

宿屋の一室。灯火が揺れるたび、全身の疲労が骨の奥へと滲んでいく。


 左頬の痛みはすでに鈍い。それよりも、抵抗できなかった屈辱が胸を締めつけていた。


 狭い部屋の空気には、薬草と血の匂いが混じり、息をするたび胸が重くなった。


 先刻運び込まれたオットーは、粗末な寝台の上で苦しげに息をしていた。


 額には汗が浮かび、右脇腹の裂傷からは、止めきれない膿が滲んでいた。


「まだ熱い……」


 手のひらで額を撫でながら、息を吸い込む。


 机の上には薬瓶や器具が整然と並んでいる。


 リディアが整えてくれたとはいえ、どれも最低限のものだった。


 窓の外はいつの間にか夕暮れ色に染まり、通りのざわめきは遠くなる。灯りが一つ、また一つと点りはじめた。


 リディアが時計を見て言う。


「お屋敷へお戻りにならなければ、セレナ様がお心配なさいます」


 私はうつむき、小さく唇を噛む。


「でも、この子を置いて帰れない」


「明日の視察もどうしたら…」


 正しいはずの言葉が、胸の奥でざらついた。母の顔が、ふとよぎる。


 リディアはため息をつき、静かに言った。


「お嬢様……何を迷われておりますか?」


 続けて、淡々と。


「襲われていたとはいえ、あの少年は盗人です。少しお優しすぎでは……?」


「分かってる」


 私は首を振った。


 「でも……放っておけなかった」


 それ以上、言葉が見つからなかった。

 

 遠い記憶の奥で、父の声が揺れた。


 ――誇りを。


 リディアは小さく息をつき、腰の小袋を解く。


「……まったく、瓜二つですね」


 彼女は立ち上がり、窓の外を一瞥する。


「まもなく門が閉まります。私はセレナ様のお世話に戻らねばなりません」


 その言葉に、私はわずかに息を詰めた。


 リディアは机に目を落とし、小瓶を取り出す。


「ですが……お嬢様がお残りになるというのなら、せめて明日の行程の備えを。彼を、明日の同行者として動けるようにしておきましょう」


「同行……?」


「私が間に合わない以上、最低限の護衛と荷物持ちは必要です。

 この場は――お嬢様の直感を信じます」


 少し気恥ずかしくなった。


 そのまま、小瓶から青白く光る粉末を取り出す。生きてほしいと願うほどに、光が強くなるように感じられた。


 秤で計量し、すり鉢で混ぜる。


「なに?これ…」


「エーテルという魔鉱石の粉末です。体に取リ込めば魔力へと変わり、疲労を和らげます。……分量には、くれぐれもお気をつけて」


 水に溶かし、慎重に攪拌する。


「……できました」


 手渡された小瓶を受け取り、そっとオットーの唇元に差し出す。


「……飲んで、ね」


 半ば朦朧とした目で、オットーがそれを受け取る。


 喉を通るにつれ、荒かった呼吸が少しずつ落ち着いていった。


 私はその様子を見守り、少しだけ安心した。


 リディアは静かに立ち上がる。


「これで私も屋敷へ戻れます。お嬢様、どうかお気をつけて」


「分かった……ありがとう、リディア」


 扉が閉まり、足音が遠ざかる。


 ――そのとき。


「……あんた、どうして……」


 掠れた声がした。


 オットーが目を細め、こちらを見ている。


「“あんた”はやめて。アリサでいいわ」


「気分なんてどうだっていい…オレは盗人だぜ。王族が、自分の手を汚して施しを与えるなんて、どういうつもりだ?」


「どうしてって…ねぇ?」


 私は一度、目を伏せた。言葉を探しても、どれも違う気がした。


 オットーの瞳は、まるで毒を盛られた獣のように、不信に満ちた目でこちらを測っていた。

 

 沈黙だけが二人のあいだに落ちた。灯火の光が揺れ、壁に映る影が滲む。


「……私ね」


 言葉が喉の奥で引っかかる。それでも、逃げずに続けた。


「……妾の子なの」


 灯火が、ぱちりと音を立てて揺れた。


 それ以上、言葉は続かなかった。

 続ければ、言い訳になる気がした。


 オットーは、すぐには何も言わない。


 灯火が揺れ、壁の影が歪む。


 彼は何かを言いかけ――やめた。


「あなたを助けるのは、私のためよ」


 そう言ったあと、言葉が続かなかった。


 しばらく、灯火の音だけが部屋に落ちる。


「……放っておくとね」


 アリサは、自分の胸元にそっと手を当てた。


「ここが、ずっとざわついたままになる気がしたの」

 

 その声音には、幼さと決意が同居していた。


 オットーは言葉にならず、ただ私を見つめた。


「……変な奴だな」


「よく言われるわ」


 私はふっと笑った。その笑みに、ようやくオットーの表情が少しだけ緩んだ。


「明日は早いわ。おやすみ、オットー」


「あぁ、おやすみ、アリサ」


 灯がゆらめき、夜風が鳴いた。


 その静けさの中で、二人の呼吸だけが確かに重なっていた。


 アリサは机に身を預け、いつの間にか浅い眠りに落ちていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

奇跡の粉(くすり)を啜る国 ――妾の王女は祈りを忘れる ましゅけなだ @masyukenada

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画