第1章4節
魔具工房を出て、午後の日差しを浴びる。
緊張から解放された途端、急にお腹が空いた。
「リディア、見て! 砂糖菓子だよ!」
露店のひとつに目を輝かせる。色とりどりの菓子が瓶に詰められ、陽光の中で宝石のようにきらめいていた。
「……また甘いものですか」
「だって、歩きっぱなしだもん。少しくらい、いいでしょ?」
リディアは肩をすくめ、穏やかに笑う。
「仕方ありませんね。では――一袋だけです」
お許しをもらえた私は、吸い込まれるように店先へ駆け寄った。
「お姉さん、これください!」
「はーい、ちょっと待ってくださいねー」
店員が串に刺した焼き菓子に、たっぷりと粉砂糖を振りかける。
黄金色の表面は、雪景色のような白さに変わり、見るだけで舌が疼いた。
「今年はルマリア連邦の景気がいいみたいでね。サトウキビがたくさん入っているんですよ」
店員がにこやかに世間話を始める。
「何でも“豊作の神様”がいるとか。こっちの国は“山の神様”でしたっけ?……まぁ、どっちもおとぎ話ですけどね」
そう言いながら、焼き上げた菓子を包んで手渡してくれた。
「頼りになるのはお金ってところです。――ほい、十ギル」
差し出された手に合わせ、私は小さな財布を取り出す――直後、風のようにすっと伸びた小さな手が、私の財布を攫った。
「……っ!」
少年の影はするりと人混みに紛れ、路地裏へ駆け込む。
「ちょっと! あんたの財布だよ! 追いかけて!」
店主が怒鳴る。
リディアは私に荷物を押しつけると、軽く肩を回し――いきなり大地を蹴った。
ヒールの踵が石畳に響き、煙のような粉が舞った。
「……リディア、もぉ、そっちじゃないのに」
思わず苦笑する。幼い頃、鬼ごっこで一度も勝てなかったことを思い出す。
だが、私は知っている。彼女が一度ターゲットを追うと決めたら、獲物がどの路地に逃げるか、瞬時に計算できることを。
だから、彼女が選んだ道とは逆の、別の路地を選んだ。彼女の動きを信じて、この街路のどこかで交差することを期待して。
甘い匂いがすっと遠のき、代わりに酸味が鼻を刺した。
露店のざわめきも淡く沈み、胸の奥に、ざわつく不安が小さく芽吹いた。
街の輪郭が影色に溶けていく。
暖かな光の余韻が、気づけば手の届かない遠さに置き去りになっていた。
彼女が違う道へ消えるのを見届け、私は別の路地を選んだ。
路地裏は薄暗く、腐った木材と生ゴミの匂いが混じり合い、足元の石畳は、濡れた土の黒さを帯びていた。
少年は立ち止まり、盗んだ財布を開いて中身を確かめている。
「へ、マヌケが」
数枚の銀貨をポケットに忍ばせたその時――。
……静寂が一瞬、路地を支配した。
「おい、オットー。今月の上納はどうした?」
ごつい男たちが数人、壁際から姿を現す。獣じみた眼が、少年を獲物のように追い詰める。
「まだ……集めきれてなくて。もう少し待ってもらえませんか?」
少年が後ずさる。
「おいおい……先月と言っていることが違うじゃないの」
その声を嘲笑うように、男たちの間を長身の影が割って進む。
「オレはな、仕事をする上で“人の輪”が一番大事だと思ってる。友情とも言っていい」
笑っているはずなのに、空気が凍る。
「みんなで目標に向かって働くのは気分がいい。……だろ?」
「は、はぁ……」
「お前は今、その輪から一歩、外れかけてる。分かるか?」
少年の顔が青ざめる。
「観たぜ。お前、さっき財布から金を抜いただろ」
空気が凍りつく。
「金を抜いたクセに、集金日を守れねぇのはおかしい話だ」
男はため息をつき、拳を握る。
「……オレはお前との友情をもっと大事にしたかったよ」
肩をポンと叩かれた途端、拳が少年を襲った。細い体は宙を舞い、石壁に打ち付けられる。
長身の男は背を向け、面倒くさそうに言った。
「夜勤明けで眠いんだ。……集金、忘れるなよ」
そして去り際に一言。
「オレを恨むんじゃねぇぞ」
何度も殴られ、蹴られ――少年が地面に転がった瞬間、私は路地に駆け込んだ。
「……なにこれ」
目に映ったのは、すでにボロボロになった少年の姿。
最初は彼がゴロツキの仲間かと思った。だが状況は明らかに違う。
「やめなさい!」
気づけば、私は叫んでいた。
思い切り声を絞り出すと、ゴロツキどもの手が一瞬止まった。
巨漢のひとりが吠える。
「なんだぁ? 見せもんじゃねぇぞ!」
「無抵抗の人間になんてことを……誇りはないの?」
声を震わせながら問いかける。男たちはニヤリと笑う。
「誇りだってよ。お嬢ちゃん、そんなこと言うヤツは初めて見たよ」
巨漢は私の身なりを見てにやける。
「随分と育ちが良さそうな格好じゃねぇか」
「構わねぇ、そいつも身包み全部剥いじまえ!」
「育ちがいい」――その言葉が胸を刺した。
胸の奥が、熱を帯びた。
見た目で“育ちが良さそう”と見くびられる悔しさ。
力でねじ伏せられそうになる屈辱が、胸の奥で燃え上がる。
反射的に巨漢の脛を蹴り上げる――けれど、腕を捻られ、石畳に押し倒される。
乱暴に押さえつけられ、恐怖が走る。
「おい、このままこいつを攫っちまおうぜ」
藻掻く。石畳に頬が擦れた。必死に抵抗するが、大人たちの力には敵わない。
痛い。頭が真っ白になる。
――動け。止まったら終わりだ。私はがむしゃらに腕を振り払った。
そのとき、路地裏に静寂が裂けた――。
鋭い金属音が路地裏に響き、周囲の影が歪む。
ヒールの踵が石畳を踏み鳴らすと、魔石の粉が煙のように舞い上がった。
リディアが、瞬く間にゴロツキたちの前に立った。
彼女は瞬時に状況を理解し、怒気を放つ。
「貴様ら…お嬢様の身体に――!」
言い終わる前に、距離は消えた。
「触るなァ!!!」
蹴り一閃。巨漢の顔面が石壁にめり込む。壁が砕け、悲鳴が響く。
残りのゴロツキたち、蜘蛛の子のように散る。
暴漢の手が離れた瞬間、足の力が抜けた。
怖かった――本当に、死ぬかと思った。
私は震える胸を押さえながら、リディアに支えられて立ち上がる。
「リディア……」
「怪我はありませんか、お嬢様」
その声は怒気を孕みながらも、母が子を案じるような柔らかさを帯びていた。
(……父上。私は、誇りを失わずにいられただろうか。ただ、悔しさに突き動かされただけかもしれない。けれど、この痛みは、私が見捨てることを選ばなかった証だ)
二人が立ち去ろうとした時、地面に座り込んだ少年がかすれた声を絞り出す。
「……助けてくれて、ありがとう。俺の名は……オットー。……アンタの名前を、聞かせてくれるかい」
私は振り返り、少し迷った後で答えた。
「私はアリサ。――アリサ・フィオナ・エルドリオン」
その名が響いた瞬間、夕風が路地裏を抜けた。
オットーの瞳が驚きに揺れ――胸の奥で、何かが確かに動き出した。
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