第5話 生まれゆくひよこ
「やっぱり、こういう関係って、よくないかなって思うの」
イロハちゃんは言った。
僕たちは風呂に入ろうとして、服を脱ぎ、下着姿になったところだった。彼女はブラジャーを外す手を止め、声を震わせた。
「どうしてそう思うの」僕は言った。狭い脱衣室。ごうごうと換気扇の音がなっていた。
「だって、私たちもう高校生だし」
「そんなこと百も承知だよ。僕たちは……僕たちは特別じゃなかったの」
「ごめんなさい」
イロハちゃんは泣きはじめた。しゃくりあげ、目の端っこからはポロポロと涙の粒があふれた。
「私、子供だった。自分の体のことも年齢のこともまったく考えていなかったの。楓くんにずっと悪いことしちゃってたんじゃないかと思って」
「僕ならなんとも思わないよ。二人でお風呂に入っても。同じベッドに寝ても。そうでしょう。それが僕たちの関係でしょう」
イロハちゃんは答えなかった。無言を貫いたまま、今度は制服に袖を通しはじめた。
「飛澤になにか言われたんでしょ? 違う?」
イロハちゃんは答えなかった。
泣き顔を一瞬だけ僕に向けると、僕の家を出ていった。そして、二度とこの家に戻ってくることはなかった。
その後、渡り廊下にいるときに、飛澤とイロハちゃんが並んで歩いているのを見かけた。お昼休みのことで、日差しは肌につきささるかのように強かった。ふたりとも顔に笑みを浮かべていた。イロハちゃんは、飛澤の野太い腕にしがみつくようにしてよりそい、野趣あふれるその顔を見上げていた。『星野のやつバカでさ。紅茶にスティックシュガー十本も入れてんの。んで飲んでんの。飲み干してんの』『あはは、星野くんやっぱり面白い人だね』『面白いわけじゃない。バカなだけ。めちゃくちゃバカ』。
彼らに見つからないように僕は身を隠した。どうして自分でも隠れているのかその理由がわからなかった。イロハちゃんの心のなかにもう僕の入る余地はないのだ。すべては遠い思い出の中に消えてしまった。
渡り廊下の外に出ると、ピーチクピーチクと鳥の鳴き声がした。ツバメの巣の存在に気がついた。前にも見たな。春頃に。
みれば、親鳥が毛虫のようなものをひなに与えているところだった。
そうか。
ツバメの卵が
ひなの鳴き声は強かった。親鳥のもってきたエサを全部食らってしまおうというような迫力に満ちあふれていた。その小さな体に秘めた恐ろしいまでの生存本能。これが生物というものなのだ。
イロハちゃんはずっと卵の殻の中にいた。やむにやまれぬ理由があってそうしていたのだけど、それを突き破ったんだ。自分自身の力で。
――それに引き換え、僕ってなんなんだろう。
何の力も残っていない。
このまま、殻の中で腐って死んでいってしまうのだろうか。
イロハちゃんからは、その後、一度だけ連絡が来た。
――ごめんなさい。
そんなメッセージと一緒に一枚の写真が送られてきた。彼女のヌード写真だった。広い広いベッドの上で膝を折って座り、その白魚のような指で顔面を隠していても、彼女だと分かった。場所は彼女の部屋ではない。広いので、どこかホテルの一室と見えた。
見慣れたはずの体なのに、やけに艶っぽく見えた。
この画像がどういう経緯で僕に送られてきたのかは分からない。誰が撮影したのか。何のために撮影したのか。今となっても分からない。
イロハちゃんと接触する機会は何度もあったのだけれど、表面的な世間話ばかりで、なかなか深い話には入っていけなかった。
「ごめんなさい。もう行かないと」
それが、イロハちゃんが僕と話すときのの口癖になった。
バラから滴った液体を集めたような香りを振りまきながら、イロハちゃんはいつも僕に背を向ける。
僕はその背中を見送る。
この殻のなかにて。
たまごのこころ 馬村 ありん @arinning
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