第4話 卵が割れる
それからほぼ毎日をイロハちゃんと過ごしていたけれど、飛澤のことが話題に上ることはなかった。僕は「やっぱり」という気持ちと「よかった」という気持ちを両方同時に抱えた。イロハちゃんが、誰とも知らない男を好きになることはない。ずっと幼い心を持ったままなのだ。そういう思いを強くした。だが、事態は思わぬ形に進展した。
その時、イロハちゃんと僕は、キッチンにいた。調理台の上には卵が六つ。ミルク。砂糖。バター。イロハちゃんはひとつずつ丁寧に卵の殻をわり、ステンレス製のボウルの中に中身をすべて落とした。
「あとは、適量ミルクを入れて。あんまり入れると、固まりにくくなっちゃうから気を付けてね」
僕は言った。
「適量って言われても困るよ」イロハちゃんは唇をとがらせた。「ちゃんと分量で言ってくれないと分からない」
「じゃあ、しょうがないな」
フライパンを火にかけたまま、僕はイロハちゃんに代わって、ボウルにミルクを降り注いだ。溶け合い、混ざり合う黄色と白。砂糖をこさじ一杯、塩をひとつまみ入れた。その後、熱したフライパンの上にバターを投げ込んだ。ジュワーと音を立ててバターが溶け出した。イロハちゃんがボウルを手渡してきた。
「三年の飛澤さんって知っている?」
イロハちゃんが言った。
「えっ」
僕は動きが止まった。
「付き合うことになったの」
聞き間違いではない。イロハちゃんは確かにそう言った。
「付き合うことになった?」
イロハちゃんから僕は目が離せなかった。イロハちゃんはというと、僕から目を逸らした。
「楓くん、フライパン! 焦げちゃうよ!」
「なんで?」
イロハちゃんは僕の横をすり抜けて、ガスの火を止め、換気扇を回した。古びた換気扇は、ゴオオっと大げさな音を立てた。焦げくさいバターの香りが鼻先をついた。
「もう、しっかりしてよね。別に、好きだから付き合うってわけじゃないから。あっちがしつこいから、期間限定で付き合うことにしたの」
その直後、温かな感触が胸を駆け抜けた。
「私たちの関係には何も起こらないから」
イロハちゃんが僕の胸に顔を沈めていた。柔らかな肌の感触。髪からただようシャンプーの香り。それは、僕の興奮した心を沈めるには十分だった。
「嫌なものは嫌って言わないとだめだよ」
「そこまで嫌ってわけじゃないよ」イロハちゃんは言った。「しつこいところは嫌いだけど、飛澤さんとお話していると楽しいのも確かなの。お付き合いとは言っても、お話するだけの関係にとどまると思う」
その時、何を思ったのか自分でも覚えていない。ただ、ショックだった。イロハちゃんが、どうして男と恋人関係になることを許したりしたのか、理解できなかった。彼女の心は卵ではなかったのか。
それでも、彼女の言った通り、僕たちの関係は変わることはなかった。一緒にお風呂にはいったし、一緒に同じベッドで寝た。そうして一週間が経った。
夜九時半を回っていた。イロハちゃんが僕の家に来るはずの日なのに、いつまで経っても姿を現さなかった。何度も電話をしたし、メッセージも送った。だけど、電話はつながらなかったし、メッセージが既読になることはなかった。葉子さんにも連絡した。警察にも連絡すべきか迷っていたら、イロハちゃんが玄関に現れた。
「ただいま」
そういってイロハちゃんは家の中に入ってきた。
「遅いよ。どうしたの」
このときの僕の態度は、まるで食って掛かるようだった。これでは激怒しているのと変わらない。
「ごめんなさい」
顔を蒼白にして、イロハちゃんは言った。
「うわ。たくさん電話くれてたんだね。ごめんなさい。気がつかなかった。本当なのよ」
「何していたの?」
僕は言った。
彼女は唇を引き締め、黙っていたが、やがて口を割った。「飛澤先輩と一緒にいたの。言っておくけど、変なことはしていないから。本当にお話していただけ」
「連絡ぐらいくれよ。待たされるのはツラいよ」
僕は言った。
「本当にごめんなさい」
「ご飯」
「ご飯は食べてきちゃった」
その言葉に僕は頭を抱えた。
「何だよそれ。せっかく作ったのに」
「本当にごめんなさい」
沈黙のあとで、イロハちゃんは言った。
「私、きょうは帰るね」
「どうして」
「お家で過ごしたい気分なの。ひとりになりたいというか。そういう気分のときってあるじゃない?」
イロハちゃんは早口でまくし立てた。
そう言われると、反対する理由もない。彼女は「また明日」と言って家を出ていった。僕は遅くなった晩御飯を食べたあと、ひとりで風呂に入り、ひとりでベッドに入った。
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