第2話 卵が割れないように

 イロハちゃんと僕は、家がとなり同士で、いうまでもなく幼馴染ってやつ。イロハちゃんのおうちは葉子さ――お母さんが遅くまで働いていることが多いから(テレビ局のプロデューサーさんなんだ)、イロハちゃんは昔から僕の家で〝お預かり〟になることが多い。もっとも僕のお母さんも看護婦で、夜にいないことが多いんだけれど。

 いま、僕たちは同じベッドに入っている。枕は二つ。掛け布団は一つ。それは昔から変わらない――幼稚園児だった昔の頃から。

『ふたりとも高校生になっても仲がいいわね。仲良しっていいわね』

 僕のお母さんも、イロハちゃんのお母さんも、僕たちが同じベッドで寝たり、一緒にお風呂に入ることを気に留めていない素振りを見せている――それでも僕は聞いたことがある。『高校生にもなっておかしくないかしら』って母親ふたりが話しているのを。『あの二人に限っては何も起こらないわよ』『そうよね。あの二人だものね。いつまでも子供だもの』。二人は、お互いがお互いに言い聞かせるように、そう話し合っていた。


「さっきは宿題手伝ってくれてありがとう」

 頭のすぐ横でイロハちゃんが言った。イロハちゃんは美少女だ。大和民族離れした鼻の高さに、黒目がちな大きな両目。小さな輪郭。細長い首筋。彼女とこうして同じ布団で同じ目の高さで向き合うとき、その美しさにほれぼれせずにはいられない。「ビーナスの誕生」とか「モナリザ」みたいな美術的価値が、彼女の顔貌かおかたちには宿っている。

「楓くんは、頭が良いから、いつも助かってる。あたしバカだから」

 その髪からただよってくるシトラスの香りが鼻先をくすぐる。シトラスだけじゃない。それよりももっと甘いなにかの成分を香りは含んでいた。

「バカじゃないよ。イロハちゃんは。どうしてそういう事をいうの?」

「バカだよ。もちろん、われながら成績は上位をキープしているし、授業にはついていけているつもり(数学を除いてね)。でも、楓くんと比べるとどうも見劣りしちゃう。要するに、比較の問題ってことなの」

「そういうふうに考えるのやめようよ」

「やーい、優等生」

 イロハちゃんの人差し指が、僕の鼻をツンとつついた。だから僕もツンとつついてやった。僕たちは笑いあった。

「明かり消そうか」


 ものの数分もしないうちに、イロハちゃんは眠りに落ちた。小さな唇の間をすり抜けて、すやすやと寝息が聞こえてくる。僕は目を閉じた。何も見えなくなる。目をぎゅっとする。まただ。体が暴走をはじめている。バクバクと脈打つ心臓の音と、どくどく血流のほとばしる感覚にさいなまれる。叶うことなら、かれんなその唇に自分の唇を近づけたい。ふれあいたい。それも、ただ体をくっつけ合うだけじゃなくて、もっと激しい交わりを僕の心がほっしている。

 でも、そんなことをすると、イロハちゃんに嫌われることが分かっている。イロハちゃんは不潔なものが嫌いだ。


 中学二年生のある日のことだった。家に帰ったら定期購読している週刊少年サンデーが捨てられていた。母親は知らないと言った。じゃあ、誰が捨てたのかというと、イロハちゃんだった。

『こういうのは良くないと思う。不健全だよ』

 サンデーのその号の表紙には、水着グラビアを着た女の子が載っていた。砂浜の上で膝を折って座り、読者にほほえみを向ける女の子。ラメの入ったピンク色の小さいビキニを身にまとった女の子。両腕で胸を寄せるとってもかわいい女の子。

『楓くんは、こういうのは好きにならないよね』

 声のトーンを落として、イロハちゃんは言った。

『僕は好きじゃないよ。僕はコナンが読みたいだけだから』

 僕は言った。

『よかった』

 イロハちゃんはにっこりと笑った。

 高校生ともなれば……高校生ともなれば、一緒にお風呂にはいったり、同じベッドに入ったりするのはおかしいことなのかもしれない。でも、僕たちは違うのだ。お互いに恋心を抱くことはないし、お互いに性的な欲望をいだくことはない。そうでなくてはいけない。


 小学校五年生の時にお母さんが僕に言ったことを今でも覚えている。『イロハちゃんに優しくしてあげてね。イロハちゃん、義理のお父さんに乱暴なことされたの。いまはとっても傷つきやすいのよ』

 イロハちゃんの心は、卵のようなものだ。割れないように気をつけなくてはいけない。僕はそう心に決めた。

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