きみ

馬渕まり

きみ

 成瀬吾郎主計少尉は優秀で、そして変人だった。普段の兵站へいたん業務もさることながら、実家が造り酒屋を営む庄屋であるため仕入れに顔が利き、彼が担当する酒保しゅほ業務の充実ぶりは類を見ないほどだった。  


 そんな成瀬の好物は「生卵をかけた飯」。どういう手を使ったのか軍医長の許可を得て、成瀬は上陸のたびに卵を一つだけ持ち帰った。 「その日のうちに食すことが条件だ」と言われているらしく、だいたい夕食時に麦飯の上へ卵を落とし、自分専用の醤油をかけて食べている。なぜか能面のように表情を動かさずにだ。  

 自分用の醤油を持ち込んでいるあたりでかなり酔狂な奴だと思われていたが、成瀬が着任してから酒保の質がぐっと上がったものだから、誰も文句を言う者はいなかった。


「……ああ、黄身が双子か。気味が悪いな」  


 ある日の夕食時、成瀬が声を上げた。見ると、湯気が立つ飯の上にぷっくりとした黄身が二つ並んでいる。


「一つ食うか?」  


 卵を見つめすぎていたのだろうか、成瀬が不意に話しかけてきた。


「ああ、それはありがたい。機関室したかまの番をしていると、どうにも腹が減ってな」  


 成瀬は手際よく箸で黄身を摘み上げた。新鮮なせいか形が崩れない。成瀬は俺の飯の上に綺麗なままの黄身を載せた後、全く表情を動かさずに聞いてきた。


「醤油、使うか?」

「いいのか?」  


 成瀬は何も言わずに俺へ醤油瓶を差し出してきた。その醤油が美味いの何の。俺はどこで売っているのか聞きたかったが、黙々と食事をする成瀬の様子に、聞けないまま終わってしまった。  

 次の停泊の時も成瀬は卵を持ち帰った。そしてまた双子だった。


「私は一つだけ食いたいんだ」  


 成瀬はまた、俺に黄身を一つくれた。 毎回ではないが、かなりの確率で成瀬の卵は双子だった。


「貴様は運が良いな」

「は?」  


 礼のつもりで褒めてみたが、反応はそれだけだった。


 ある夜、若手士官の酒席で「どんな死に方をしたいか」という話になった。


「お国のために戦い抜いて死ぬ。それが一番だろう」  


 春にはこの部屋を出て分隊長になりそうな、砲術科の士官が言った。


「そりゃそうだが、そういうのは抜きにしてだよ」  


 士官次室で一番陽気な航海士が笑いながら続ける。それを契機に、さまざまな意見が飛び交った。 「孫に囲まれて」「やはり畳の上が良い」 そのうち、艶っぽい話も出てくる。


「おい成瀬、貴様はどうなんだ」  


 先任に絡まれた成瀬は、いつものように無表情で――いや、少し眉をひそめたかもしれないが――淡々と答えた。


「……惚れた奴に見守られて、ですかね」  


 普段の成瀬からは想像もつかない言葉に、その場は大いに湧き立つのだった。



「酒保開きねぇ。後の処理が大変なんですよ」  

 戦闘を前にして士気を上げるべく、艦長から酒保を解放する旨の達示が出たが、成瀬は相変わらず淡々と仕事をこなしていた。  

 機関科の最年少士官である俺が仕事を終え、酒保にたどり着いた時、めぼしい食料はすっかり持ち去られ、申し訳程度に石鹸や下着が残るのみだった。


「石鹸、持っていくか?」  


 残った在庫を記帳しながら成瀬が聞いた。


「いや、要らん」

「だろうな」

「なら、なぜ聞く」  


 成瀬は俺の問いを無視して、カウンターの下からハッカ飴の箱を取り出した。


「いつも買っているやつだろ」

「いいのか」

「職権濫用だ。そのくらいは良かろう」    


 それきり成瀬は口を閉じ、また作業に戻っていった。



 その日の深夜、ふねは魚雷に腹を貫かれ、傾き、沈みかけていた。深部にいる機関科はまず助からない。が、機関長が早いうちに「役立たずの若造は足手まといだ、上へ行け」と俺を機関室へやから追い出した。閉まる扉の向こうから「達者でな」と皆の声が聞こえた。  


 甲板うえに上がれば機銃掃射の雨あられだが、腹の中でくたばるよりはマシだった。  

 俺は運良く海に飛び込むことができたが、そこは海水というより重油のプールで、浮いているのがやっとの状態だ。空にはまだ敵機がいる。やり過ごせても友軍に拾われるとは限らない。  


 運を天に任せるつもりで漂っていると、軽く袖を引かれた。見ると成瀬がいた。白い夏衣も顔もべったりと油で汚れている。しかし、いつもと同じ表情だった。


「これに掴まっておけ。敵機が来たら下に潜れ」  


 そう言って成瀬は、自分が掴まっていた艦の破片を俺に押し付けてきた。


「な……」  


 理由を聞きたかったが、黒い波が邪魔をする。


「お前に言わせると、私は運が良いんだろ? 気にするな」  


 そう言って成瀬は手を離した。次の瞬間、耳をつんざくようなプロペラ音が間近で聞こえた。俺は言われた通り、破片の下に身を隠した。気が遠くなる寸前まで息を止め、ようやく水面に顔を出すと、敵機は飛び去った後だった。  

 胸を貫かれた成瀬が、目の前でゆっくりと沈んでいくのが見えた。

 

――なぜか、その顔は笑っていた。



 戦争が終わり、俺は内航船の機関士の職を得た。世帯を持ち、子供にも恵まれた。  

 オリンピックの年、末の子が出しっぱなしにしていた理科雑誌をふと手に取ると、「検卵」の話が載っていた。強力なライトで透かすと割る前から黄身の数が判別できるという。熟練者になれば、微妙な大きさと重さの差で双子だと分かるらしい。  


 感心して読んでいるうちに妻が帰ってきた。昇進と好景気で給与も上がり、妻も時折デパートで買い物をするようになっていた。


「物産展で、美味しいお味噌とお醤油を見つけたの」  


 おそらく素敵なワンピースも見つけたのであろう、妻は上機嫌だった。


「今日は久しぶりに卵かけ飯にするか」   


 ちょうど昨日買った卵があった。殻を割ると、黄身が二つ飯の上に落ちた。


「わぁ、双子だ!」  


 末の子がはしゃぎ声を上げる。


「どうれ、父さんと半分こだ」  


 黄身を箸で掴んで子の茶碗に入れた後、妻が買ってきた醤油を垂らし、黄身を割る。若い頃に戻った気分でかき込むと、あの日と同じ味がした。


――どうして……。


 急いで瓶を手に取ると、製造元に『成瀬醸造』の文字。


「おいしいね。あれ、お父さんどうしたの?」


 目の前で笑う末子の姿が、なぜかぼやけて見えた。


(了)

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きみ 馬渕まり @xiaoxiao2

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