第七話:静寂の源泉

 古来、まほろばの霊泉は、八百万の神々がその足を休めるために湧き出させたものと伝えられている。

 その清冽なる湯気が、今、再び獺祭館の女湯において濛々たる白煙を上げ、石造りの湯船を熱狂の渦に叩き込んでいた。


 真っ白な飛沫を上げて、注ぎ口から躍り出る熱水の咆哮。

 数日間、死んだように沈黙を守り続けていた源泉が、今は滾々と命の脈動を伝え、溢れ出しているのである。


 立ち込める濃密な硫黄の香は、鼻腔を突き抜け、脳髄を痺れさせるほどに芳醇だ。

 人間たちはこれを「癒やし」と呼び、週末の享楽として消費するわけだが、我々川獺にとっては、これこそがこの地の均衡を保つための霊的酸素に他ならない。


 湯船の表面では、幾重にも重なる波紋が光を弾き、天井の古びた木組みを淡く、だが威風堂々たる風格で照らし出していた。

 湯治客たちの、いささか騒がしいほどの笑い声が脱衣所にまで漏れ聞こえてくる。


「いいお湯だこと。やっぱり獺祭館の源泉は、肌に吸い付くような潤いが違うわね」


「本当。一時はどうなることかと思ったけれど、これでようやく、腰の痛みも和らぎそうだわ」


 番台の近くに立つ深雪さんは、そんな婦人たちの声を耳にしながら、どこか遠くを見つめていた。


 オイラは脱衣所の入り口で腕を組み、流れ出てくる湯の音に耳を澄ませていた。

 一見すれば、ただの冴えない青年の立ち姿。

 その実態は、取り戻した竜頭をいかに守り抜くかという、大層ちんけで、それでいて看過し難い重大な懸念に心を砕く川獺である。

 取り戻した竜頭は、今はこの館の奥深く、誰も触れられぬ聖域へと安置されている。


 南雲のジジイが施した呪縛が解けたことで、湯の温度はかつての熱さを取り戻した。

 万事解決、めでたしめでたしと、帳場で赤飯でも炊きたい気分ではある。

 だのに、オイラの胸に渦巻く得体の知れないざわつきは、一向に収まる気配を見せなかった。


 ロビーの方では、春人兄上が客一人一人に、これでもかというほど、おもねるような笑顔で、丁寧な挨拶を繰り返している。

 その背中は、若旦那としての重責から一瞬だけ解放されたようにも見えた。

 春人兄上の生真面目すぎる仕事ぶりが、館の空気を辛うじて平穏に繋ぎ止めている。


 その真面目さがいつか破綻して、露天風呂で巨大化しないことを祈るばかりだ。

 春人兄上の眉間の皺は、温泉街の地図を書き換えるほどの深さを湛え、そこには一族の苦悩が沈殿しているようであった。


 母上は、二階の自室で静かに祈りを捧げているはず。

 あの古い掛け軸の前で、館の守護と、放蕩な次男の更生でも願っているのだろう。


「……静かすぎるな、深雪様」


 オイラが呟いた独り言に、深雪さんが小さく頷いた。


「ええ。竜頭を奪い返された南雲銀蔵が、これほど長く沈黙を守るなんて。逆に不気味だわ」


 彼女の澄んだ気配は、この淀んだ温泉街においては孤高の存在であり、オイラの鼻をひくりとさせる


「あの老いぼれの執念は、そんなに安いもんじゃない。力で押してダメなら、次は毒を盛る。そういう男だ。今はまだ、奥の院で次の牙を研いでいる最中だろうよ。支持率が低迷した政党のような必至さで、こちらの隙を窺っているに違いねぇ」


 オイラは、視線を床の板目へと落とした。

 使い込まれた床板の輝きは、この館が重ねてきた化かし化かされの歴史そのものである。




 その頃、温泉街の北端。

 南雲家の屋敷は、真昼だというのに厚い雲の下、底冷えのする静寂に包まれていた。

 墓石を並べたような庭園を抜け、奥にある書斎。

 南雲銀蔵が、深い陰を帯びた椅子に身を沈めている。


 南雲の瞳には、狂気と憎悪が入り混じった、濁った火が灯っていた。

「大倉の小倅から奪った霊具を、まさか獺祭館の砂利どもが嗅ぎつけるとはな……。川獺の分際で、この私の計画を邪魔しようというのか」


 絞り出すような声が、冷たい壁に反響する。

 南雲は立ち上がろうとして、杖を強く握りしめた。

 掌に食い込む木肌の感触が、敗北の味を呼び起こす。

 南雲は短く、低く笑った。

 その笑い声は、冬の枯れ葉が擦れ合うような、湿り気のない響きを帯びている。


「いいだろう。力ずくで竜頭を奪い合うのは、これでおしまいだ。正面からぶつかるだけが、戦の形ではなかろう。奴らの甘っちょろい家族愛を、腐った納豆のようにかき回してやる」


 南雲が指を鳴らした。

 書斎の隅にある影が、濛々たる瘴気のように揺らめき始める。

 そこから這い出してきたのは、実体があるのかさえ疑わしい、数匹の狢たちだ。

 銀色の瞳をした彼らは、音もなく主人の足元に跪き、次の汚れた命を待つ。


「お前たちに、新たな役割を与える。獺祭館の源泉が戻ったと、間抜けな顔で喜んでいる連中の鼻を、根こそぎへし折ってやれ」


 南雲の声は、氷の破片のように冷たく、鋭い。


「竜頭があろうとなかろうと、奴らの繁栄には必ず、守り神のような正体がある。あんな古びた旅館が、これほどの年月、この地の富を独占し続けてきた理由だ。それを暴き、喰らい尽くし、根っこから枯らせ。目に見える湯を止めるのではなく、目に見えぬ運を絶つ。それこそが我ら狢の本懐であろう」


 狢たちは、言葉にならない奇声を漏らしながら、再び影の中へと溶け込んでいった。

 彼らの執念は、まさに国を揺るがす工作員の如き陰湿さ。

 南雲は椅子にもたれかかり、闇の立ち込める天井を見上げた。

「獺祭館よ。お前たちの運の尽きを、一番特等席で見物させてやる。高潔な皮肉を気取る暇も与えぬほどに、な」




 夜が更けるにつれ、獺祭館の周囲には奇妙な湿気が立ち込め始めた。

 それは温泉の湯気とは明らかに異なる、不浄な澱を含んだ気配。


 オイラは、独り館の周囲を見回っていた。

 帳場では、ようやく全ての客が就寝したことを確認し、春人兄上が帳簿を整理している。


「夏生、まだ起きていたのか」


 春人兄上が、疲れの見える顔を上げ、オイラに声をかけた。

 その眉間の皺は、今夜もまた少し深くなり、地質学的な変化を遂げようとしている。


「ああ。どうにも胸騒ぎがしてねな。春人兄上こそ、少しは休んだらどうだい。そんな辛気臭い顔でお客様を出迎えちゃ、せっかくの源泉も冷めちまうってもんよ」


「そうもいかないさ。源泉が戻ったことで、明日は今日以上のお客様がいらっしゃる。準備を怠るわけにはいかない。この館の暖簾を、俺の手で汚すわけにはいかないんだ。一族の誇りを守るのが、俺の務めだからな」


 春人兄上の言葉は、どこまでも誠実で、重い。

 それは美しい自己犠牲に見えるが、オイラからすれば、過積載のトラックが坂道を登っているような危うさを感じる。


 彼は、その背後に漂う、館を丸ごと飲み込もうとするような負の気配に、まだ気づいていない。

 オイラは、それ以上何も言わず、暗い廊下を奥へと進んだ。


 母上の部屋の前を通ると、中から微かに衣擦れの音が聞こえてきた。

 母上は、今夜も眠らずに、あの古い掛け軸の前で祈りを捧げているのだろう。

 その迫力たるや、まさに陰陽師、安倍晴明……いや、蘆屋道満か。

 オイラは、その重苦しい静寂を破るのをためらい、そのまま通り過ぎた。


 突き当たりにある部屋。

 そこでは、深雪さんが一人、月明かりも届かぬ闇の中に、一輪の白百合のように佇んでいた。


「夏生くん。……さっきから、聞こえない?」


 深雪さんの囁き声に、オイラは足を止めた。

 耳を澄ませる。

 源泉が石を叩く律動。

 風が建物の隙間を抜ける、悲鳴のような音。

 そして。

 カサリ、という、爪が古びた板張りを引っ掻くような音が聞こえてくる。

 それは床下から、あるいは天井の闇から、断続的に響いていた。


「鼠か?」


「いいえ。鼠なら、もっと遠慮なく走るわ。これは、何かもっと……狡猾で意思を持った生き物の動きよ。あなたの鼻には、何も届かないの?」


 オイラは鼻をひくりとさせた。

 届く。

 川魚の匂いでも、湯上がりの牛乳の匂いでもない。

 腐りきった茶道の宗匠のような、古びた、湿った、それでいて鋭い獣の臭い。


 オイラは、腰の獲物――ゴルフボール付き孫の手に手をかけた。

 だが、その音の主は、光が及ばない場所を巧みに移動し、決して姿を現さない。

 暗闇の中で、狢たちは着実にその歩みを進めていた。

 彼らは南雲の命のままに、館の壁を抜け、梁を這い、この繁栄を支える「核」を探し求めている。



 狢の一体が、母上の部屋の鴨居にぶら下がり、障子の隙間から中を覗き込んだ。

 そこには、凛とした姿で座る母上の背中。

 その正面に掛けられた、一本の古い掛け軸。

 庭で鞠を蹴る童が描かれた、奇妙なほどに瑞々しいその絵。

 狢の銀色の瞳が、獲物を見つけた獣のように、ギラリと釘付けになる。


 狢の喉から、歓喜にも似た、ヒュウという音が漏れた。

 彼らは見つけたのだ。

 獺祭館の繁栄の根源、座敷わらしの依代を。



 オイラは、廊下の窓を開け、夜の空気を吸い込んだ。

 温泉街の灯りは疎らになり、立ち上る湯気が月明かりに照らされて、巨大な幽霊のように揺れている。

 隣に並んだ深雪さんが、不安げに夜の帳を見つめている。


「ねえ、私たち、本当に正しいことをしたのかしら。あの竜頭を取り戻したことで、もっと大きな禍を呼び寄せてしまったんじゃないかって、時々怖くなるの」


 オイラは、懐から取り出した煙管に火をつけた。

 紫煙が、夜風に流されてゆっくりと消えていく。

 皮肉な微笑を口元に浮かべようとしたが、どうにも頬が強張る。


「正しいかどうかなんて、後になって誰かが勝手に決めることだ。歴史てぇものは、いつだって勝者の都合で書き換えられる。オイラたちは、今この場所を守るために、あの老いぼれから、竜頭を奪い返した。それだけのことさ。それ以外に、道なんてなかっただろう」


 オイラは、わざと投げやりな口調で言った。

 深雪さんの不安を打ち消すためではない。

 自分自身の心に空いた、底知れない予感という名の穴を埋めるための、精一杯の強がりだった。


「南雲の野郎、次はどんな汚い手を使ってくる。……楽しみで、反吐が出るぜ」


 オイラは、煙管の火を床に捨て、踵で踏み消した。

 闇の中で、狢たちが嘲笑っているような気がした。



 春人兄上の帳簿が、風もないのに不自然にめくれた。

 母上の祈りの声が、一瞬だけ震えた。

 源泉の湯気が、どことなく、腐った泥のような臭いを帯び始める。



「夏生くん。何か、嫌な予感がするわ。……館が、泣いているみたい」


 その言葉が終わるか終わらないかのうちに、館の奥から、乾いた「カチリ」という音が聞こえた。

 それは、時計の針が動くような音でもあり、何かが折れる音のようでもあった。

 南雲の呪いが、静かに獺祭館の心臓部へと牙を剥いた。

 我々川獺の、穏やかで莫迦げた日常に、風穴が開こうとしている。


 オイラは、口の端を歪めて不敵に笑った。


 嗚呼、皮肉なことは面白ぇ。


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♨️牙を隠して湯を注げ♨️ 〜人に化けたあやかしの温泉旅館は今日も良い温泉が出ております〜 いぬがみとうま @tomainugami

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