第六話:鏡の中の迷い子

 およそこの世において、現実と虚構の境界線ほど、脆弱ぜいじゃくで、さりとて残酷な壁は存在しない。


 鏡の中の闇が、貪欲な獣のごとくその顎を開き、銀色の触手がうねうねと浴室のタイルを舐め回している。

 オイラ、は、不敵な笑みを浮かべて見せはしたものの、背筋に走る峻烈な悪寒を禁じ得なかった。

 

 

 女湯の鏡。

 本来ならば、一日の疲れを癒やした女性たちが、火照った頬を自慢げに眺めるはずのその清浄なる水面は、いまや南雲銀蔵なぐもぎんぞうの放った銀泥虫ぎんでいちゅうによって、底なしの泥濘へと変貌を遂げている。

 鏡の奥に映る脱衣所の時計は、猛烈な勢いで逆回転を続け、針の音は大地が砕けるような不吉な呻き声へと変わっていた。


「お出ましだ」


 オイラは一歩前に出て、箒を構えた。

 さりとて、相手は質量を持たぬ呪術の産物である。

 銀色の泥は、オイラの足元を嘲笑うようにすり抜け、深雪さんの白銀のストールを標的に定めたらしい。


「夏生くん、見て! あの中よ……鏡の奥の、あの赤い扉の麓に!」


 深雪さんの鋭い声が、湿った空気を切り裂いた。

 

 

 彼女の指し示す先。

 鏡の中に広がる歪んだ世界の中央、逆回転する時計の真下に、一点の輝きがあった。

 

 

 鈍い金光を放つ、時計の部品。

 大倉様の懐中時計から、引き抜かれた金時計の竜頭である。


「……なるほど、むじなの野郎どもは、鍵をあっち側の世界に隠しやがった。……深雪様、あぶねぇ! そこから下がりなさい!」


 オイラが叫ぶよりも早く、深雪さんは鏡の表面へと手を伸ばした。

 

 

 作家志望という世を忍ぶ仮の姿の裏側で、彼女が何を背負っているのか、オイラはまだ預かり知らぬ。

 なればこそ、彼女の瞳に宿る、強靭きょうじんなまでの「何か」が、彼女を迷いなく深淵へと突き動かしたらしい。

 彼女の白い指先が鏡の表面に触れた瞬間、浴室の温度が一気に氷点下ひょうてんかへと叩き落とされた。


 ドロリとした銀色の泥が、彼女の腕を、首を、ストールを絡め取る。

 鏡の表面が波打ち、水銀のごとき粘液が滝となって彼女を虚構の闇へと引きずり込み始めた。


「きゃっ……夏生、くん!」


「深雪様!」


 彼女の体が、不自然な角度で鏡の中へと吸い込まれていく。

 オイラは躊躇する暇などありゃしなかった。

 

 

 孤高ここうの高等遊民を自称し、面倒事には一切関わらぬことを信条としてきたオイラの矜持きょうじが、この時、音を立てて崩れ去った。

 理屈など、後からいくらでも捏ねられる。

 いま、この瞬間に彼女の細い腕を離せば、オイラの日常は、文字通りの意味で死に絶えるのだ。


 オイラはぽんと煙を上げ、人間の皮を脱ぎ捨てた。


 現れたのは、喉を低く鳴らし、全身の茶色い毛を逆立てた、猛々しい川獺の姿である。

 

 四本の足で滑りやすいタイルを掴み、オイラは鏡の深淵へと吸い込まれゆく深雪さんの腕を目がけて、弾丸のごとき跳躍を敢行した。


 オイラは、彼女の服の袖を噛んだのではない。

 その細い腕を、銀色の手が引きちぎろうとするその直前、オイラは自らの顎を限界まで開き、あの「隠すべき恥部」であった鋭い牙を、彼女の腕の肉の、ギリギリの場所に突き立てた。


 牙を剥く。

 それは、獣にとって殺意の証明であり、同時に相手を自らの支配下に置くためのもっとも根源的な暴力の行使に他ならない。


 一族の中でも「化け」が下手なオイラにとって、この牙は、常に隠し続けねばならぬ醜悪な呪いであり、自らの莫迦な正体を晒すのと同義であった。

 

 

 プライドの高いオイラにとって、誰かに牙を見られることは、死よりも辛い辱めであったのだ。

 

 春人兄上のように巨大化して敵を威圧することも、秋留のように可憐な姿で人を魅了することも出来ぬ、出来損ないの証。


 だがしかし。


 深雪さんを鏡の向こう側——狢の深淵へと引きずり込もうとする銀泥虫の触手を、オイラの牙が、叩き伏せたではないか。

 オイラの顎に込めた力は、鏡の中のおぞましい呪力を食い止め、彼女の魂が霧散するのを繋ぎ止めた。


 牙の重みを知る。

 それは、単に物を噛み砕くための道具ではない。

 大切ものを、何があっても離さないための、唯一無二の錨であり、絆の証なのだ。

 オイラは、自らの牙の強靭さを、このとき初めて誇らしく思った。


「キュイィィィーーーッ!(離さねぇぞ、この銀泥野郎!)」


 喉の奥から、獣としての咆哮が漏れる。

 オイラは首を振り、全身の筋力を総動員して、深雪さんの体を現実側へと引き戻した。

 鏡の表面が玻璃はりの砕けるような悲鳴を上げて激しく波打ち、銀色の粘液が四散する。



 

 ドサッ、という鈍い音と共に、オイラと深雪さんは、女湯の乾いた床へと叩きつけられた。


 鏡は、元の静かな何も映さない不気味な表面に戻っている。

 オイラは慌てて人間の姿に戻り彼女の様子を伺った。


「……深雪様、ご無事でございやすか! あー、もう、だから言わんこっちゃありやせん。あんた、もう少し自分の命を大事にしなせぇよ。ミステリ作家が、事件の犠牲者になっちまったら、それこそ皮肉を通り越して、ただの喜劇でさぁ」


 オイラは、彼女の腕に残った自分の牙の跡——血こそ出ていないが、赤く点々と残った刻印を見て、一瞬、胸が締め付けられた。


 大切な人の肌を、この呪われた牙で汚してしまった。

 その罪悪感に押し潰されそうになり、思わず視線を逸らす。

 

 

 「化け」の解けた醜い自分を。

 暴力の象徴であるこの口元を。

 嫌悪されるのではないかという、身勝手な怯えが、オイラの喉を詰まらせた。


 意外や、深雪さんは、自分の腕に残った牙の跡をそっと撫で、眩しそうにオイラを見上げた。


「……ありがとう、夏生くん。……ちょっと痛かったけれど、とても温かかったわ。あなたのその牙、ちっとも怖くない。私を助けてくれた、とても頼もしい牙だわ。……それに、見て」


 彼女が掌を開くと、そこには一点の黄金が握られていた。

 

 

 鏡の中から、命懸けで引きずり出してきたもの。

 まほろば温泉の時間を司る、金色の竜頭である。


「……取ってこれたんですね、深雪様」


「ええ。この竜頭が霊脈を塞いでた『栓』だったみたいね」


 鏡の中には、もはや逆回転する時計も、銀色の触手もなかった。

 

 そして、女湯の湯船にはじゃぶじゃぶと音を立てて源泉が流れ始めた。



 夜明けまで、あと数刻。

 

 源泉となる霊脈を巡る事件は一件落着。

 金時計の竜頭を取り戻したことで、女湯の源泉が戻ったのだ。


 オイラは、拳を固く握りしめていた。

 自分の牙が人を助けたことで、オイラの中の何かが変質していた。

 

 孤高の高等遊民を気取り、世界を皮肉ることで己の無力さを誤魔化してきた臆病者は、もうそこにはいない。

 牙を持つ獣として。

 この「獺祭館」を守る次男として。


 オイラは、かつてないほどの高揚感を感じていたのである。


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