第2話【後半】深淵を覗く者 ―潔癖キャスターと「雄の残り香」の迷宮―
静寂なホテルの個室に、ジュルリ、と唾液を呑み込む音と、布が擦れる音だけが響いていた。
ニュース番組で見せる冷静沈着な氷室サヤカの姿は、もうどこにもない。 彼女は両手でTシャツを鷲掴みにし、まるで酸素マスクのように顔に押し当てていた。 鼻孔を限界まで広げ、繊維の奥に染み付いた「雄の分子」を、脳の
「んぅ……っ、はぁ……! すごい……頭が、痺れる……」 「そうだ。もっと吸い込め。大脳辺縁系を飽和させろ」
キリシマは観察を続けながら、冷静に解説を加える。 「マキ、彼女の様子をよく見ろ。これは『プルースト効果』の変異型だ」 「プルースト効果? 紅茶のマドレーヌの?」 「ああ。特定の香りが、鮮烈な記憶や感情をフラッシュバックさせる現象だ。だが、彼女が感じているのは個人の記憶ではない。『種としての記憶』だ。太古の昔、我々の祖先が闇の中で互いを求め合った、純粋な生命力の記憶を呼び覚ましているんだ」
サヤカの喉が小さく鳴った。 彼女の脳内では今、理性(言葉)というノイズが完全に遮断され、ドーパミンという名の奔流が駆け巡っている。 孤独だったのだ。 嘘で塗り固められたニュース原稿、無臭に漂白されたスタジオ、誰もが仮面を被った人間関係。 その中で彼女は、唯一「嘘のつけない情報」――すなわち、むせ返るような生身の匂いに飢えていた。
「あ、あっ、だめ……いっぱい、入ってくる……!」
サヤカの背中が弓なりに反り、ビクンと大きく痙攣した。 直接触れられてなどいない。ただ「匂い」を嗅いだだけだ。 しかし、彼女の脳は限界を超えた情報の流入に耐えきれず、性的オーガズムにも似た、あるいはそれ以上の
「あ゛ぁぁ――――ッ……!!」
彼女はTシャツに顔を埋めたまま、糸が切れたように脱力した。 部屋には、濃厚な余韻と、彼女の荒い吐息だけが残された。
◇
数分後。 サヤカはソファに深く沈み込み、ぼんやりと天井を見上げていた。 手にはまだ、あのTシャツが握りしめられている。だが、不思議と不潔感はなかった。むしろ、愛着のある
「……信じられません」 サヤカは独り言のように呟いた。 「今まで、こんな臭いは軽蔑の対象でした。不衛生で、野蛮で……。でも、今はこの匂いがあるだけで、心臓の鼓動が落ち着くんです」 「それが『相性』だ。MHC遺伝子が遠い相手の匂いは、君の免疫系にとって最高の安息地になる」 キリシマはミネラルウォーターを差し出した。 「どうだ、ニュースキャスター。真実は見つかったか?」
彼女は水を受け取り、自嘲気味に、しかし美しく微笑んだ。 「ええ。皮肉なものです。私が毎日伝えているニュースよりも、この汗臭い布切れの方が、よっぽど『真実』を語っているなんて」 彼女はTシャツを丁寧に畳むと、大切そうに自身の高級バッグにしまった。
「あの、それ……持って帰るんですか?」 マキが恐る恐る尋ねると、サヤカは真剣な眼差しで答えた。 「はい。これがないと、今夜は眠れそうにないので」 「……そうですか(引)」
「行くぞ、マキ。彼女はもう大丈夫だ。無臭の牢獄から解放された」 キリシマは満足げに席を立った。 「ちょ、キリシマさん! あのTシャツ、あなたのですよね!? なんか複雑なんですけど!」 「気にするな。俺のフェロモンが人類の役に立っただけの話だ」
◇
翌日。Webメディア『深淵実話』に、また一つ、問題作とも言える記事がアップされた。
【特集】深淵を覗く者 Vol.2 タイトル:【実録】清潔な社会が殺した「野性の嗅覚」~なぜ美女はオヤジ臭に惹かれるのか~ 文:キリシマ(性癖ジャーナリスト)
■はじめに 「生理的に無理」という言葉がある。 これは多くの場合、嗅覚による拒絶反応を指す。現代社会は消臭スプレーと抗菌グッズで溢れ、我々は世界を無菌室にしようとしている。 だが、今回取材したキャスター・H氏(仮名)の事例は、その清潔志向こそが、現代人の孤独を深めている病理であることを証明した。
■検証データ:ヤコブソン器官の再起動 H氏は重度の潔癖症であったが、遺伝子的に相性の良い(免疫の型が異なる)男性の汗の臭いに対し、強烈な情動反応を示した。 彼女が感じたのは「悪臭」ではなく、「安心感」と「性的興奮」の混合感情である。 これは、退化しかけていた鋤鼻器(ヤコブソン器官)が、強力なフェロモン刺激によって再起動し、脳の報酬系をジャックした結果である。
■考察:匂いは嘘をつかない 言葉は飾れる。映像は加工できる。だが、匂いだけはごまかせない。 彼女はニュースという虚構の世界に生きていたからこそ、圧倒的な「生のリアリティ(臭い)」に救済を求めたのだ。 彼女がTシャツに顔を埋めた時の表情は、宗教画の聖女のように穏やかであった。そこに不潔さは微塵もない。あるのは生命への賛歌だけだ。
■キリシマの性癖レビュー
エロ度:★★★★★ (直接的な行為は一切ないが、鼻息だけでイく姿はR-18指定級の破壊力)
社会的意義:★★★★☆ (少子化対策の鍵は、マッチングアプリのアルゴリズムではなく、互いの脇の匂いを嗅ぎ合うことかもしれない)
喪失感:★★★☆☆ (お気に入りの部屋着のTシャツを持っていかれた。返してほしいが、今の彼女から取り上げるのは猛獣から肉を奪うより危険だろう)
【結論】 読者諸君。もしパートナーの枕の臭いを「臭いけど好き」と感じるなら、手放してはいけない。それは脳が選んだ運命の相手だ。 逆に、高級香水の奥にある「他人の気配」に何も感じないなら、その恋は再考の余地があるかもしれない。 鼻を信じろ。世界はもっと、臭くて素晴らしい。
***
「……キリシマさん。記事はいいんですけど、今サヤカさんから事務所宛に『替えのTシャツを送ってください』ってメールが来てるんですが」 「なんだと? 俺はサブスクリプションじゃないぞ」 「しかも『追加料金は払います。洗濯はしないでください』だそうです」 「……人類の
キリシマは遠い目で空を見上げた。 だが、その口元はわずかに笑っていた。
(第2話 完)
『深淵(フェティシズム)を覗く者 ~変態ではありません、あくまで学術的取材(ジャーナリズム)です~』 @gamakoyarima
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