第2話(前編) 深淵を覗く者 ―潔癖キャスターと「雄の残り香」の迷宮―

「うわっ、くっさ!? 何ですかこれ、腐った雑巾の煮汁ですか!?」


 その日の午後、キリシマの事務所兼自宅であるボロアパートに、新人編集者・芦名マキの悲鳴が響き渡った。  彼女がキリシマの机の上で見つけたのは、何の変哲もない茶色の小瓶だ。だが、蓋を開けた瞬間、そこから漂った匂いは暴力的ですらあった。


「失礼なことを言うな、マキ。それは都内のスポーツジムの更衣室から回収した、極上の『抽出液エッセンス』だ」 「えっ……ジムって、まさか他人の汗を?」 「そうだ。正確には、高負荷トレーニング直後の男性から分泌された、アポクリン腺由来の分泌液だ。素晴らしいだろう? このツンとくるアンモニア臭の奥に潜む、重厚なムスクのような香り」 「オエッ……! 警察呼びますよ!」


 マキは涙目で鼻をつまみ、窓を全開にした。  だが、キリシマは愛おしそうに小瓶を掲げ、光に透かしている。その瞳は、狂気的なまでに澄んでいた。


「いいか、マキ。人間の五感の中で、唯一『検閲』を受けない感覚を知っているか?」 「検閲? なんですかそれ」 「視覚や聴覚は、一度脳の『視床』という中継地点を通る。そこで理性が情報を処理し、『これは見てはいけない』『これは不快だ』と判断するわけだ。だが――嗅覚だけは違う」


 キリシマは自分の鼻をトントンと指差した。 「匂いの分子は、ダイレクトに『大脳辺縁系』――つまり、本能や感情を司る原始の脳に突き刺さる。理性のガードなど無意味だ。匂いとは、脳のセキュリティホールを強制的にこじ開けるハッキングコードなんだよ」 「ハッキングって……。じゃあ、今回のターゲットは、その『臭い』が好きな変態ってことですか?」 「変態ではない。彼女はむしろ、誰よりも清潔を愛する現代のジャンヌ・ダルクだ」


 キリシマはニヤリと笑い、一枚の写真を放り投げた。  そこに写っていたのは、夜のニュース番組でメインキャスターを務める、誰もが知るクールビューティーだった。


 ◇


「――お断りします。私がそんな取材を受ける理由がありません」


 都内の某高級ホテルのラウンジ。  ニュースキャスターの氷室ひむろサヤカは、にべもなくそう言った。  仕立ての良い紺色のスーツに、一点の曇りもない白いブラウス。テーブルに置かれた彼女の手元には、携帯用のアルコールジェルと除菌シートが完備されている。  彼女は業界でも有名な「潔癖症」だった。他人の握った寿司は食べられないし、電車のつり革も掴めない。その徹底した衛生管理が、彼女の「孤高の美しさ」を際立たせていた。


「私の嗅覚は人より敏感なんです。タバコや汗の不潔な匂いを嗅ぐと、吐き気がするほど。だから常に消臭ケアを欠かさない。これはエチケットであり、プロ意識です」 「プロ意識、か。素晴らしい」  キリシマはコーヒーを啜りながら、獲物を見定める目で彼女を見た。 「だが、氷室さん。君のその過剰なまでの除菌行動……心理学的には『反動形成』に見えるな」 「反動、ですか?」 「そうだ。君は臭いが嫌いなんじゃない。本当は、匂いに対して貪欲すぎるんだ。あまりに多くの情報を鼻から受け取ってしまうため、理性がパンクしないよう、世界を無臭化クリーンして防衛しているに過ぎない」


 サヤカの眉がピクリと動いた。 「……無礼な方ですね。私は不潔なものが生理的に無理なだけです」 「なら、証明してみよう。君の鼻が求めているのが『無臭』なのか、それとも『生命』なのか」  キリシマは鞄からアイマスクを取り出した。 「簡単な実験だ。君は目隠しをして、僕が用意したいくつかの香りを嗅ぐだけでいい。もし不快なら即座に中止し、謝罪記事を書こう」 「……いいでしょう。私の信念が揺らがないことを証明してさしあげます」


 ◇


 場所をホテルの個室に移し、実験(取材)は開始された。  サヤカはソファに座り、視界を完全に遮断されている。視覚情報が消えたことで、彼女の神経はすべて聴覚と嗅覚に集中していた。


「では、第一の検体だ」  キリシマがマキに合図を送る。マキは恐る恐る、最高級ブランドの香水を染み込ませたムエット(試香紙)をサヤカの鼻先に近づけた。  サヤカはスッと鼻を動かす。 「……シャネルの5番ですね。悪くはありませんが、合成香料のアルデヒド臭が強すぎます。作為的で、退屈な香りです」 「正解だ。では、次はこれだ」  次は、無添加の高級石鹸。 「……清潔ですね。でも、それだけです。何の感情も喚起されません」


 彼女の反応は冷淡だった。やはり、ただの潔癖症なのではないか? マキがそう思い始めた時、キリシマが「本命」を取り出した。  それはジップロックに入れられた、使い古されたグレーのTシャツだった。  キリシマ自身が昨日、炎天下の取材で一日中着続け、一晩寝かせたものだ。  マキは顔をしかめる。正直、汗臭い。これをあの美人の顔に近づけるなんて、放送事故だ。


「さあ、最後だ。心して嗅げ」


 キリシマは袋を開け、その布切れをサヤカの顔に押し当てる寸前で止めた。  ふわり、と。  空調の風に乗って、目に見えない粒子が彼女の鼻腔へと届く。


 その瞬間だった。  サヤカの肩が、ビクリと大きく跳ねた。


「っ……!?」 「どうした? 臭いか?」 「な、なに……これ……?」


 彼女の声色が震えている。  先程までの冷徹なアナウンス口調ではない。まるで熱に浮かされたような、潤んだ声だ。  彼女の鼻翼びよくが大きく広がり、ヒクヒクと痙攣している。  ヤコブソン器官――フェロモンを感知する「第六感」とも呼ばれる鋤鼻器じょびきが、空気中に漂う雄のシグナルを捉え、脳髄へと電気信号を爆送しているのだ。


「あ、ああっ……」  サヤカの口元が半開きになり、呼吸が荒くなる。  酸素を取り込もうとしているのではない。空気中に薄まったその「匂い」の分子を、一つ残らず肺の奥底まで吸い込もうとする、貪欲な吸引音だ。


「嫌な臭いのはずです。汗と、皮脂の酸化した臭い……不潔なはずなのに……」 「頭で考えるな。遺伝子が何と言っている?」  キリシマは冷酷に問いかける。 「これは『MHC遺伝子』の適合シグナルだ。君の免疫系とは異なる、遠い遺伝子を持つ雄の香り。生物として、君の本能が『この雄の遺伝子を取り込め』と叫んでいるんだ」 「ちが、う……私は……」


 否定しようとする言葉とは裏腹に、彼女の首筋は朱に染まり、汗が滲み出していた。  交感神経が麻痺し、瞳孔が開く。  マキは息を呑んだ。ニュース番組で見せる知的な彼女は消え失せ、そこには発情期を迎えた一匹の雌動物が座っていた。


「……もっと。もっと、近くに……」 「欲しいか? この『汚い』布切れが」 「汚くない……! これは……生命いのちの、匂い……」


 サヤカの手が、宙を彷徨う。  匂いの源泉を求めて、盲目のままキリシマの手首を掴み、そして――。


「んふぅっ……!!」


 彼女はためらうことなく、その汗染みたTシャツに顔を埋めた。  高級ファンデーションが布に付着するのも構わず、鼻を、口を、頬を擦り付ける。  まるで、砂漠で水を見つけた遭難者のように、彼女はその強烈な雄の臭いをむさぼり始めた。


(続く)

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