第1話【後半】深淵を覗く者 ―マッチングアプリの「M嬢」と脳内麻薬のパラドックス―

――獣の咆哮のような絶頂から、数分後。  ホテルのスイートルームには、静寂と、むせ返るような栗の花の匂い(精液ではない、愛液そのものの濃厚な芳香だ)が充満していた。


 ベッドの上には、一人の女が横たわっている。  レイナの四肢は投げ出され、焦点の合わない瞳で天井を見つめていた。全身には玉の汗が浮き、エアコンの冷気を受けてわずかに湯気を立てている。  先程までの「良家のお嬢様」という鎧は完全に剥がれ落ち、そこにはただ、満たされた一匹の雌がいた。


「……記録、継続」  キリシマは乱れた呼吸一つせず、彼女の脈拍を測っていた。 「心拍数は平常値まで急速に低下。副交感神経が優位になり、筋肉の硬直が解けている。……マキ、見ろ。この表情を」 「う……直視できませんよ、こんなの」  マキは指の隙間から、恐る恐るベッドを見る。  レイナの顔は、だらしなく緩んでいるが、同時に奇妙なほど「穏やか」だった。憑き物が落ちた仏のような、あるいは聖女のような安らぎがそこにあった。


「これが『反動形成』によるリラクゼーションだ。極度の緊張と苦痛を与えられた脳は、その解放の瞬間に大量のセロトニンを分泌する。どんな高級エステも、この快感には勝てない」  キリシマは満足げに頷くと、サイドテーブルのミネラルウォーターをレイナの口元に運んだ。 「飲めるか? 水分を摂れ。脱水症状に近い」 「あ……はい……」  レイナは掠れた声で答え、水をすする。  数分して、ようやく瞳に理性の光が戻ってきた。彼女は自身の乱れた姿と、拘束されたままの手首を見て、恥じらうどころか、愛おしそうに微笑んだのだ。


「……ありがとうございます、K様」 「礼を言われる筋合いはない。俺は君を実験台にしただけだ」 「いいえ。……頭が、軽くなりました。明日からまた、あの息苦しい職場に行ける気がします」  彼女はベッドから起き上がり、丁寧に一礼した。その仕草には、冒頭の怯えや、歪んだ承認欲求はもう感じられない。 「私、自分の中の『汚い部分』を吐き出せました。誰かに完全に管理される時間が、これほど安心できるなんて……」


 マキは呆然と呟く。 「……なんか、最初より綺麗な顔になってません?」 「言っただろう、マキ。性癖とは『進化』であり『救済』だと。彼女は自己治療セルフメディケーションを完了したんだ」  キリシマはジャケットを羽織り、背中で手を振った。 「行くぞ。データは取れた。あとは記事にするだけだ」 「え、もう帰るんですか!? このホテル代、一泊分払ってるんですよ!?」 「馬鹿野郎、俺は執筆以外に興味はない」


 ◇


 翌日。Webメディア『深淵実話アビス・ジャーナル』の編集部。  キリシマが徹夜で書き上げた記事が、マキのPCモニターに表示されていた。


「……キリシマさん。内容は認めますけど、これ、本当にアップするんですか?」 「当然だ。一文字たりとも修正は許さん」 「はぁ……わかりました。ポチッとな」


 マキがエンターキーを押した瞬間、その記事はネットの海へと放流された。


 ***


【特集】深淵を覗く者 Vol.1 タイトル:【検証】エリート美女はなぜ「家畜」になりたがるのか? ~マッチングアプリに潜む脳内麻薬ドーパミンの沼~ 文:キリシマ(性癖ジャーナリスト)


■はじめに  「優秀な人間ほど変態である」という俗説がある。  今回、筆者はマッチングアプリを通じて、都内某一流企業に勤める20代女性・R氏(仮名)への接触に成功した。彼女が求めたのは、性的快楽ではなく「人格の否定」と「完全なる服従」であった。  一見して矛盾するこの欲求の正体を、行動心理学と生理学の観点から紐解いていく。


■検証データ:痛みはいつ快楽に変わるのか?  取材現場(都内ホテル)において、筆者はR氏に対し、視覚遮断および言語的侮辱によるストレス負荷実験を行った。  当初、R氏は恐怖反応(心拍上昇・発汗)を示していたが、一定の閾値を超えた瞬間、劇的な反応の変化が見られた。


β-エンドルフィンの分泌: 脳がストレスを緩和するために分泌する麻薬様物質。これにより、R氏の表情からは苦痛の色が消え、陶酔状態へと移行した。


責任からの解放: 「自分は無力なモノである」と認識することで、彼女の前頭葉(理性を司る部分)の活動が低下。日々の重圧である「決断」のプロセスがスキップされ、脳が急速な休息状態に入ったと考えられる。


■考察:現代社会が生んだ「M」という適応戦略  R氏は取材後、「頭が軽くなった」と語った。  これは、サウナにおける「整う」現象と酷似している。熱気ストレス水風呂ショックを交互に浴びることで自律神経を強制リセットするように、彼女は「被虐」というショック療法でメンタルを調整していたのだ。  つまり、M(マゾヒスト)とは、精神的弱者ではない。むしろ過酷な現代社会を生き抜くために、自らの脳内報酬系をハックすることに成功した「進化した個体」と言えるだろう。


■キリシマの性癖レビュー


エロ度:★★★★☆ (理性が崩壊し、涎を垂らして喜ぶエリートの姿は、背徳の極みである)


学術的価値:★★★★★ (人間の尊厳とは何かを考えさせられる貴重なサンプル)


コストパフォーマンス:★☆☆☆☆ (高級ホテル代に加え、拘束用ネクタイ(自前)が愛液で使い物にならなくなった。編集部は至急、経費として補填されたし)


【結論】  もしあなたの隣の席の優秀な同僚が、ふとした瞬間に遠い目をしていたら。  彼女は今、誰かの靴を舐める妄想で、必死にSAN値(正気度)を回復させているのかもしれない。  性癖に貴賤なし。それは明日を生きるための、祈りにも似た叫びなのだ。


 ***


「……最後の一文で綺麗にまとめようとしてますけど、経費の申請は通りませんからね」 「なんだと!? ネクタイはジル・サンダーだぞ!」 「知りませんよ! ああもう、次の依頼が来てますよ。次は……ええっ?」


 マキが読み上げた次のメールに、キリシマの目が妖しく光った。  それは、さらなる深淵への入り口だった。


(第1話 完)

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