罪流しの湯

いちはじめ

罪流しの湯

「だめだ、全然進まない」

 原稿の締め切りまであと一週間足らずだというのに、まだ一枚も書けていない男は、思わず手にした万年筆を原稿用紙に叩きつけようとして、すんでのところで思いとどまった。

 丁寧にキャップを閉め、用紙の上に置いたそれには『第二十三回新人賞』と金色の文字が彫ってある。

 もう何年か前の話になるが、勤めの傍ら趣味で書いていた小説が、あるコンテストの新人賞に選ばれたのだ。そこから男の作家人生が始まった。

 最初の頃は自分の才能が認められたことがうれしくて書きまくっていた。それに男の本はそこそこ売れてもいた。だが七年ほど経った頃から徐々に書けなくなっていた。いや書いてはいたが、アイデアが浮かばなくなり、盗作まがいのことをしてお茶を濁していたのだ。

 もうそろそろ世話になっている編集者もそれに気づく頃だろう。

 今回、出版社が企画するアンソロジー集――高橋源次郎や筒井隆康のような文壇の大御所が招かれている――の一つに短編を依頼された。

 題材は『罪』。これまでの題材の『試験』『まちがい』『卒業』は、他人さまから盗用したアイデアで何とか書いてきたが、もう限界だ。

 盗用でしか小説を書けない自分が情けない。これは自分への裏切りであり、そしてまた今まで世話になってきた出版社への裏切りでもある。そう思うと怒りさえ湧いてくる。

 ――もう盗作はやめだ。

 そう強く決意して挑んだはずなのだが、気がつくと小説投稿サイトの中を漁っている自分がいた。


 男は書くことをあきらめ、投宿している温泉旅館の部屋の窓辺から、夕日に照らされた稜線をぼんやりと眺めていた。

 突然部屋の電話が鳴った。

 男の心臓が、まさか、と早鐘を打つ。

 あの担当者もここまでは追ってはこられないだろうと、スマホが全く役に立たない、こんな人里離れた温泉宿に身を隠したというのに……。

 恐る恐る受話器を取ると、それは女将からであった。頼んでいたマッサージ師が到着したという知らせだった。

 拍子抜けした男の体から力が抜け、へなへなと床にへたり込んだ。

 ほどなくしてノックの音がした。

「マッサージに伺いました」

 入ってきたマッサージ師はずんぐりとした中年の女性だった。

 こんな田舎のマッサージ師だ、大した腕ではないだろうと高をくくっていたが、彼女の施術は堂に入ったものだった。

 ――もう何も考えずに彼女の心地よいマッサージに身を任せよう。

 男は彼女の語り掛けに夢うつつで返事をしていた。

「お客さんはもう『罪流しの湯』には入られましたか」

 男の心がその言葉にざわついた。

「今なんて言った?」

「『罪流しの湯』ですが」

 彼女の話によると、その昔、村の乱暴者が散々悪さをした挙句ついにつかまり、処刑されることになったが、涙ながらに何でもするからと命乞いをしたので、ためしに温泉を掘ってみろと言ったところ、本当に温泉を掘り当てたので男はその罪を許され、その後、村人が気味悪がるほどおとなしくなったという。

 その伝承から、その湯は背負った罪を流してくれるという噂が立ち、いつしか『罪流しの湯』と呼ばれるようになったとのこと。

 聞くとその温泉はこの旅館から十分程下った沢沿いにあるという。

「なんでも罪が流されると湯が濁るそうですよ」

 男は早速その湯に行ってみることにした。とっくに日は暮れて辺りは暗かった。申し訳程度の誘導灯を頼りに下ること十数分、ようやくそれらしきところにたどり着いた。脱衣場で浴衣を脱ぎ中に入ると、そこは源泉かけ流しの露天風呂だった。

 男は誰もいない湯船にゆっくりと浸かる。泉質は同じだが旅館の湯よりは少し温度が低い。沢の渓流から聞こえてくるせせらぎの音が心地よい。

 彼女の話を本気で信じたわけではないが、それにすがりたいと思ったのも事実だった。

 ――もし本当に濁ったら……。まさかな。

 そう思って湯を見ると、湯が黒く濁っているではないか。

「うわぁっ」

 男は思わず立ち上がり、改めて湯の中を覗いてみた。だが透き通った湯は、頼りない照明の淡い光をゆらゆらと湯面に映しているだけだった。

 ――気のせいか。いくら何でもそんなに都合良くは……。

 男は気を取り直して再び湯に浸かると、ざぶざぶと顔を洗い大きく深呼吸をした。   その時時、沢を渡る風がすっと湯けむりを散らした。

 男の心のモヤモヤしたものが晴れていく。

 ――ああ、罪が流されていくようだ。

 そうだ、この温泉の伝承を元に俺の罪を書けばいいじゃないか。

 そう思い立った男は湯船から飛び出し、体をふくこともそこそこに浴衣をひっかけ、脱兎のごとく旅館への坂道を駆け上がった。

 ――書けるぞ。これはまさに『罪流しの湯』だな。

 それから男は寝食も厭わず執筆に集中した。そして四日目に依頼された枚数の小説を書き終え、編集部へ郵送した。


 その原稿は、ちょうど締め切りの日に出版社に届いた。

「編集長、壹目ひとつめさんからの原稿が届いたんですけど……」

「何か問題でもあるのか」

「それが『罪流しの湯』という題名以外は、何も書かれていないんです」


 その頃、男はまだ同じ湯に魂を抜かれたようにぼんやりと浸かっていた。

 彼を流すその湯は、濁りもなくただ澄んでいるだけだった。まるで男にはもう洗い流すものが何もない、とでもいうように。

                                   (了)

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