第10話
雫が額に落ちて、眠っていたラムセスは微笑いながら目を覚ました。
「…………泣くなよ。
勝算無く、あんな動く禁呪みたいな奴に挑むほど、
俺は無謀でヤンチャじゃない」
メリクの濡れる頬に手を伸ばす。
柔らかい輪郭。
自分の魂が死にかけているというのに、
他人の為に心を痛めて涙を分け与えている。
……本当に情け深い魂だと思う。
こういう人間を、ラムセスは今まで見たことが無かった。
彼の王妃も誰に分け隔てなく情け深い人だったが、
彼女は別に、メリクほど自分自身を卑下はしていない。
メリクは本気で他人の為に命や魂を投げ打つ。
見ていられない。
だが、ずっと見ていたいとも思う。
「お前の話をちゃんと聞いてた。
魔具はどうにもならんが、
あいつが見た目よりずっと出会い頭に凶暴じゃないってことは、
お前の話を聞いてたから予想出来た。
しかもあいつは厳格に魔法則も精霊法も守って生きてきた奴なんだろ?
あいつと対峙した一番最初の瞬間から、
あいつは俺に勝てないだろうと予測は立っていた」
「……わざと挑発しましたね?」
「俺はこの通り天才だけど実験を軽視しない。
才能にも溺れてない。
一撃食らわないとあいつの魔力が、
【
自信はあったが、念を押した。
あいつはともかく俺やお前を異空に吹っ飛ばすわけにはいかない。
対象のイメージを精密に捉えることは【
メリクは脱力するように蹲り、仰向けに寝そべっているラムセスの頭部を抱えるように抱きしめた。
「……………………貴方が死んでしまうかと思った」
ラムセスは笑んだまま手を動かして、
頭の方から自分を抱え込むメリクの後頭部をそっと撫でてやった。
「俺は強いから大丈夫だよ。
でも……ははっ。何百年ぶりにあんなにブチ切れたかな」
朗らかに自分を笑いながら、ゆっくり起き上がる。
服に手を突っ込んで左肩を探ると、僅かに傷の痕が指先で感じられた。
しかし与えられた傷を思えば完治していると言っていい状態だ。
「元々はあいつの闇の魔力を回復魔法に転用した。
さすがはお前自慢のお師匠様だよ。
――まったく、いい魔力してやがる」
苦笑してしまった。
「サダルメリク」
「……。」
「よく結界張って凌いだな」
メリクは瞳を見開いた。
「お前があのまま受けたらどうしようかと思ったよ。
俺があいつと遣り合うより、そっちの方は見立ては五分五分だったぞ。
だが俺はお前に賭けた。
お前の魂の強さに。
そして賭けに勝ったんだ。誉めてくれ」
「…………受けようと思っていました」
ラムセスは俯いているメリクを見た。
「…………受けて、あげたいとも思った。
それで一つでも二つでも、
あの人の心が安らぎを得るなら。
でも……」
メリクは言葉を区切る。
「…………でも?」
「……でも、なにかが……………………何かがそれでいいのだろうかと、迷って」
リュティスの憎しみ、
あの、嘆き。
初めて感じた苛烈さは、第一の生では一度も感じたことがない。
あんな生でも、あの人には手加減をされていた。
何かを許されて、
生き永らえさせられてもらっていた。
単なる憎い者ではサンゴール時代のメリクは、なかったのだ。
それに気付けた。
憎しみだけになればリュティスとはたちまちこうなる。
そういう運命の人なのだ。
だからサンゴール時代は、
リュティスから自分への微かな情けはあったのだと今日分かった。
この気持ちをサンゴール時代の、
少年時代の自分に教えてやりたかった。
確かに憎まれて、疎まれているけれど、
……傷つかぬように、守られてもいたのだということを。
「無意識に張ってしまっていた」
あれほどあの人にならいつ殺されてもいいと思っていたのに。
胸に顔が埋もれた。
強く引き寄せ、抱きしめられる。
「それでいいんだよ。サダルメリク。
その、気持ちだ。
その迷いがあれば、生きていくことだって望める。
お前の魂はまだ死んでない。
花のようにここからだって蘇れる」
メリクは目を強く閉じた。
その拍子に零れ落ちた涙を、ラムセスの唇は救いに行った。
鼻先に触れた赤い髪にそっと指を絡め、撫でるような仕草をすると、
その手をラムセスが掴み、唇を奪いながらメリクを仰向けに押し倒した。
言葉が失われる。
でもその省略された言葉は、
何倍も鮮やかな色で、別の領域に描き出されている。
失われたのではなく、今は必要としないだけ。
繋がりを極めれば、不必要になる瞬間が来る。
夢中で唇を探る合間に一瞬唇が離れた瞬間、
ラムセスは鼻先にはっきりとメリクと目が合った。
石のように凍り付いて、
彼の瞳はラムセスを映さないが、
でも「視ていない」わけではない。
月明かりが射し込んで、透き通ったメリクの瞳が、
確かにラムセスの瞳の、更に奥を覗き込んで来た。
いつかと同じように、ラムセスは息を飲んだ。
その美しさに、目を奪われたのだ。
瞳の奥の無垢な輝きと、
繊細な輪郭、整った顔立ちを幼く見せる、
片眼だけから零す、泣き方も。
そしてその器に、類い稀な柔らかな魂が宿る。
「俺がお前を決して消さない。」
真紅の魔術師の指が解いていく。
胸元の紐、そのもっと奥に絡みついた糸を。
彼の指にはまった指輪の冷たさに、
ひくり、と仰け反らせた白い喉が震えた。
「……消させてたまるか」
サダルメリク。
数多の精霊に干渉し、命じる声が幾度も繰り返す。
自分の中にある魔力が、
魔術師としての血、そして本能が、呼ばれるたびに疼いた。
打ち捨てられた名を救い上げられ、息も出来ない。
息が上手く出来ない胸は痛んだが、
注いでほしい、とメリクは確かに思った。
確かにあの人になら殺されてもいいと願った。
でも今は、こんなにも違うことを心から望んでいる。
人間とはこれほど一瞬で、
別の考え方になれるものなのか。
もう自分は、
自分以外の何者にもなれないと思って、
……絶望して、
地上を彷徨い歩いた。
【魔眼の王子】を完全に失ったこの器は、空虚だ。
だからこそ満たされることを望める。
心から。
『サダルメリク』
呼ぶと、魔力の脈動が確かに打ち返して来る。
奥を捉えられメリクは背を大きく反らした。
同じ場所を繰り返し貫かれる。
憎しみと同じように、
愛情もそうなのだと、
彼はこの時初めて知った。
まるで教えられてるみたいだ。
心がある、場所を。
そんな風に思った時、
触れ合わせた唇の動きで、ラムセスが微笑ったのが分かった。
自分の何かが、伝わったのだろうか?
光が瞬く。
(ああ、セスが微笑ってくれてる)
彼の側を好む精霊たちが、
今日も星のように瞬いている。
【終】
その翡翠き彷徨い【第89話 魔眼】 七海ポルカ @reeeeeen13
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