第3話 深夜2時のプレミアムプリンと、未来の開店準備
深夜一時五十分。
私は、コンビニのスイーツ棚の前で、石像のように固まっていた。
「……三百五十円」
その値札が、今の私には宝石の価格のように見える。
私の視線の先にあるのは、『
コンビニスイーツ界の王様だ。普通のプリンが百五十円前後で買える中、こいつは倍以上の価格設定で君臨している。
私の頭の中にある「貧乏電卓」が、けたたましい警報音を鳴らした。
『三百五十円あれば、特売の卵が二パック買えるぞ! もやしなら十袋だ! やめておけ、それは破滅への第一歩だ!』
普段なら、その警告に従ってすごすごと退散していただろう。
けれど、今の私は「普通」の状態ではなかった。
源さんから突き出しを任されて一週間。
私は毎日、必死だった。限られた予算、余り物の食材、そして客の舌を満足させるというプレッシャー。
今日は特にハードだった。団体客のラッシュに、源さんの理不尽な雷。心身ともに雑巾のように絞りきられ、乾ききっている。
私は、ショーケースのガラスに映る自分の顔を見た。
目の下にクマを作り、髪は乱れ、疲れ切った二十三歳の女。
……かわいそうに。
誰かが褒めてくれなきゃ、やってられない夜もある。
私は震える手で、ガラス戸を開けた。
冷気と共に、黄金色のカップを掴む。
「……支援金だか何だか知らないけど」
私は小さく呟いた。
「私の幸せの値段は、私が決める」
レジで支払った三百五十円は、今の私の全財産からすれば痛い出費だ。でも、これはただの食費じゃない。明日も私が私であり続けるための「必要経費」なのだ。
◇
ワンルームの部屋に帰り着く。
すぐにプリンを食べたい衝動を抑え、私はまずシャワーを浴びた。
汗と油の匂いを落とし、部屋着に着替える。
狭い部屋の真ん中にあるちゃぶ台を綺麗に拭き、正座する。
儀式のように、プリンの蓋を開けた。
バニラビーンズの甘く芳醇な香りが、六畳一間の空気を塗り替えていく。
「いただきます」
プラスチックのスプーンを差し込む。
表面は少し硬めだが、中はクリームのように柔らかい感触が指に伝わる……すくい上げて、口の中へ。
「……んっ」
声にならない吐息が漏れた。
濃厚な卵のコクと、生クリームの暴力的なまでの滑らかさ。舌の上で体温に溶かされながら、甘さが脳髄まで駆け上がってくる。
ただ甘いだけじゃない。底にあるカラメルソースが絶妙にビターで、その苦味が全体の輪郭を引き締めている。
おいしい……涙が出そうなほど、おいしい。
三百五十円。たったそれだけで、今日の泥のような疲労が、黄金色の幸福に変わっていく。
私はスプーンを舐めながら、料理人としての視点で考えた。
なぜ、これはこんなに心を救うのか。
高級食材を使っているから? 違う。ここには「計算された優しさ」がある。
疲れた人間が何を欲しているか、徹底的に考え抜かれたバランスだ。
その時、すとんと腹に落ちた。
「……私が作りたい店は、こういう場所なんだ」
高級な懐石料理を出して、富裕層を唸らせたいわけじゃない。
私のように、毎日仕事に追われ、お金に悩み、それでも歯を食いしばって生きている人たち。
そんな人たちが、なけなしの小銭を握りしめてやって来て、「ああ、明日も頑張ろう」と思えるような料理。
サバ缶のひつまぶしのような工夫。
大根の皮のかき揚げのような発見。
そして、このプリンのような、ささやかだけど確かな贅沢。
私は食べ終わったプリンの空き容器を丁寧に洗い、窓際に伏せて乾かした。
そして、本棚から一冊の大学ノートを取り出した。
表紙には油性ペンで汚く『小料理屋・りつこ(仮)』と書いてある。
ページを開く……そこには、これまで思いついたメニューのアイディアや、将来の店のレイアウト案が書き殴られている。
私は新しいページに、ペンを走らせた。
──『メニュー案:大人のための、ほろ苦プリン』──
──『突き出し:余り野菜の皮きんぴら、あるいは揚げ浸し』──
──『看板メニュー:缶詰変身シリーズ(要原価計算)』──
文字を書いているうちに、体の奥から熱いものが湧いてくるのを感じた。
今はまだ、手取り十六万の見習いだ。
住んでいるのは風呂なしアパートで、貯金なんて無いに等しい。
でも、このノートがある限り、そして「おいしい」を作り出せる手がある限り、私の未来は閉ざされていない。
私はノートを閉じ、天井を見上げた。
シミのある天井が、いつか自分の店の天井に見えた気がした。
「……待ってろよ、未来の常連さんたち」
私は空になったプリンのカップに向かって、小さく乾杯の仕草をした。
お腹は満たされた。夢の設計図も更新した。
さあ、明日の朝は早い。
私は布団に潜り込むと、泥のように、しかし幸福な眠りに落ちていった。
◇◇
── 『三ツ星の残飯&ワンルームの晩餐』・完 ~つづく ?~ ──
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