バサロ

倉田六未

バサロ

 水泳を引退して5年後、以前通っていたスイミングクラブの練習に少し混ぜてもらった。コーチは変わらず、選手の中で見知った後輩も少なく、ほとんど初めて会う子ばかりだった。キック練習の最後は、50mのグライドキック(けのびの姿勢でキックだけで進むこと)のタイム測定が恒例で、それは変わってなかった。


 現役の後輩たちの邪魔にならないように後ろの方で順番を待った。前の中学生から5秒あけてスタート。首から下は先に水中へ。右手の入水と同時に頭をすぐに沈め、右足を少し上にずらし母指球に力を込めて、ザラザラした壁を力強く蹴った。鼻から息を思いっきり吐き出しながら、頭はぶらさず目線を下半身へ移していく。自分の身体が削る前のかつお節になる。──硬く、尖って、無駄のない塊。


 足先が露出しないように、水面との距離を上手く調整しながら、腹筋に力を込めてバサロキックをお見舞いする。──仰向けのまま揃えた両足で水塊を蹴ったくり、はしゃぐ水流にうねりをもたらしていく。

 15mの制限を超えてからは怒涛の背面バタ足である。心臓の鼓動が高鳴る。途中で前の子を追い抜いた。5mロープが見えた段階でターンへの意識と呼吸の調整を行う。壁の直前で体を反転させ素早くクイックターンを決めて、瞬時にストリームライン(抵抗を最小限にする指先まで伸ばした姿勢)へ移行する。


 また力強いバサロを繰り出し、15mを目指す。その間、一人抜き去ることを忘れずに。呼吸が苦しいがなんとか15mで浮上し、最後の全力グライドキックを行う。下半身に乳酸が溜まってくる。すぐに5mロープが見えて、もう一人の子に追い付きそうな段階で右手で壁をタッチ。タイムは──


六未ろくみ! 1秒9! ……はっ? 1秒9? 31秒9?」


 頭上からコーチの困惑する声が漏れた。私は5年ぶりに泳いでも、自分のキック力が色褪せてないことに大変満足していたが、コーチと選手たちがドン引きしてこちらを見ているのが分かった。その後は、「5年泳いでないコイツにぼろ負けしてどうする! 六未以外、2本追加!」と本数を増やされていた。練習後に後輩20人にジュースをおごって、バイト代が消し飛んだ──全員が一番高い500mlペットボトルを選んでいた。




 私がキックに取り憑かれたのは、小学2年生の頃だったと思う。選手コースに入って間もない頃、コーチが何気なく言った言葉が全てを変えた。


「水中で移動するほうが、水の抵抗が少ないんだぞ」


 その一言が、私の中で妙に引っかかった。水面でガチャガチャ泳ぐより、水の中にいたほうが速いんだ。それなら、できるだけ長く水中にいればいい。バサロキックをもっと極めればいい。子どもながらに、そう考えた。


 それからの私は、キックの感覚を研ぎ澄ますことだけに心血を注いだ。毎週、オリンピック選手の真似をして足の毛だけ剃った。少しでも「水を感じる感覚」を邪魔されたくなかったのだ。

 練習水着は、当時主流だったスパッツ型やボックス型(ボクサーパンツ型)には目もくれず、一番布面積が小さく、足の可動域を邪魔しないブーメランパンツばかりを愛用した。さすがに試合では、人目が気になりスパッツを選んだが、練習中の私は常に「足の自由」を求めていた。


 テレビで世界水泳が放送されれば、注目するのは勝敗よりも「水中映像」だった。トップ選手が繰り出すバサロのしなやかな鞭のような動き。そこだけを録画で何度もリピートし、網膜に焼き付けた。


 振り返ってみれば、土壌はあったのかもしれない。私は毎週土日、ギアなしの自転車でふた山超えてスイミングクラブに通っていた。朝6時開始だったから、5時半には家を出発していた。他の子たちは親の車で送迎してもらっていたけれど、私は自分で漕いで行った。季節問わず、練習前には一人だけ汗だくだった。


 小学4年生の時、「ブンブン!」とアクセルを吹かす真似をしつつ交番前で信号待ちをしていたら、警察官に呼び止められ、「家出か?」と聞かれた。これからスイミングだと説明し、大きなリュックの中身を見せた──水着一式、バスタオル、スイムタオル、プルブイ、パドル、ドリンク。

 それでも信じてもらえず、家に電話が行った。母は警察に激怒し、祖母に至っては管轄の警察署長に苦情を入れていた。私はそっと、なりたい職業リストから「警察」を削除した。──ちなみに、フルパワーで立ち漕ぎをしたら、練習には奇跡的に間に合った。


 小学6年生の誕生日、ようやくギア付きの真っ赤なマウンテンバイクを買ってもらった。が、中学に入ってすぐにギアが足りなくなった。一番重いギア比で急勾配も登れるようになっていた。知らず知らずのうちに、脚力と心肺機能が鍛えられていたんだと思う。それが、キックの基礎になった。




 中学、高校と進むにつれて、私のキックは「異常」と呼ばれるようになった。


 背泳ぎが専門で、全国大会には常連だった。ただし、予選で8~10位に食い込んで決勝進出したことは一度もなかった。そういう微妙な立ち位置にいた。それでも、キックの記録だけは誰にも負けなかった。


 短水路で50mの背面グライドキックは30秒。そして背泳ぎを本気で泳ぐと28秒。つまり、キックだけでストローク(腕のかき)付きの9割近い速度が出せていた。キックと、手足両方を使うスイムとの差は、大体5秒以上あるのが一般的らしい。


 キック練習では、自然と先頭への道があいていた。100m以上のキック練習になると、周回差をつけることも珍しくなかった。

 その代わり、プル練習(浮きを足に挟んでキック無しで進む練習)はクソ雑魚だった。コースロープを周りにバレないように引っ張ることは常套手段。深くないプールなので、下半身は底を歩きながら、上半身だけ泳いでいるように見せることもあった。──すぐにバレたが。上半身の力が圧倒的に足りなかったのだ。


 ある時、コーチが提案した。


「キックが強いなら、フィン(足ヒレ)をつけたキックなら、もっと速くなるんじゃないか?」


 結果は29秒だった。素足より、たった1秒しか変わらなかった。フィンの意味とは、という感じである。


 理由は、おそらく足首の柔軟性だった。私は足を伸ばして座ると、膝を浮かせずに足の裏が床についた。左足に至っては、地にめり込んでいたかもしれない。足の甲側への可動域が異常だったのだ。

 その反面、逆方向、つまり足の裏側にはまったく曲がらなかった。これは平泳ぎ選手の特性と真逆である。案の定、私は平泳ぎがまったくダメだった。


 じゃあバタフライは、と思うかもしれないが、重力に逆らえる上半身のパワーがないので、それも得意ではなかった。消去法で残ったのが背泳ぎだけだったのだ。次点はクロールだったな。とにかく平泳ぎは最悪。


 私にとって、ストロークは「バサロ前後のつなぎ」だった。本当に大事なのは、スタート後の15m、ターン後の15m。そこで全力のバサロキックを決めること。ストロークは、その間を埋めるための充電期間に過ぎなかった。──人間なので毎回15mは無理だったけれども。それでも、10~12.5mは潜水していた。


 だから、50mより100m、100mより200mのほうが得意だった。200mになれば、バサロ区間が4倍に増える。キックの比重が相対的に高くなる。中学以降、全国大会の標準記録を切るのは、いつも200mからだった。




 高校生の時、転機が訪れた。


 ある大会で、全国1位を何人も輩出している有名なコーチに声をかけられた。


「鈴木大地にそっくりだな。バサロもフォームも」


 鈴木大地選手。ソウルオリンピックの金メダリスト。バサロキックの代名詞のような選手だ。その名前を出されて、心底嬉しかった。全国大会に出場する以上に。


「俺のクラブに来い」


 何度も誘われた。そのコーチは、「フォーム変えたほうがいいぞ」と、合宿や大会で会うたびに言ってくれた。でも、私は行かなかった。電車で40分ほどの隣の市が、当時の私にはやけに遠く感じられた。──今になって思う。あれが、大きなチャンスだったのかもしれない。




 結局、私は高校2年生の夏に水泳を辞めた。


 理由は、時代との不一致だった、と思う。


 当時の背泳ぎの主流は、入江陵介選手のローリング泳法だった。水を少量入れたペットボトルを額に乗せて、軸をぶらさない練習。丁寧にS字を描くストローク。あの美しいフォームこそが、正義だった。

 

 正直に言えば、私にあのフォームの再現は不可能だった。肩甲骨周りの柔軟性はなかったし、手の小指から入水するフォームは窮屈に思えて仕方なかった。陸から見える腕の軌跡は、常に比較の対象だった。入江ナイズドされたフォームの選手が何人もいた中で、私のストロークはどう頑張ってもあの滑らかさには届かなかった。


 だからこそのキックだった。水中は、誰にも見えない自分だけの世界。フォームの美醜は関係ない。バサロもキックも、評価されるのはタイムだけだ。そこが、私の主戦場だった。


 入江式フォームでは、1回腕をかくごとに6回キックを打つ。いわゆる6シックスビート。でも私は、そのリズムに身体が馴染まなかった。6回じゃ足りない。もっと蹴りたい。腹筋を使って、水を粉々に砕きたい。キックを「フォームを整える補助」に格下げされることが、どうしても我慢できなかった。


 さらに追い打ちをかけたのが、レーザーレーサーを象徴する、高速水着の全盛期だったことだ。


 下半身をガチガチに固めて浮力をもたらす新素材の水着が登場した。着圧を重視するため、腰から足首まで覆うロングスパッツ型が主流で、キック偏重の私にとっては、動きを阻害する代物だった。


 試合会場で、高速水着を友達に借りて履いてみることにした。薄いゴム手袋をはめ、コンビニの小さめのレジ袋を足に被せてから数ミリずつ引き上げる。──爪を立てればすぐにパンッと破れる。たかが水着なのに、装着に30分近く格闘した。

 ソレをまとった自分を鏡で見たとき、腰から下が見えなくなっていた。いや、見えている。黒く包まれて、そこにある。それなのに、指の腹でさすっても、水を蹴る感覚を刻んできたこの足の輪郭が、するりと手からこぼれ落ちていく。私の足のはずなのに、私の足ではない。そのことが、不意に心を蹴り上げた。


 値段も高騰した。それまで1万2000円ほどだった試合用水着が、いつの間にか3万から5万円の世界に入っていた。全国で決勝に残る選手には、メーカーから「試しにどうぞ」と配給される。私は全国には出場できたが、決勝までは届かない。水着の性能差は、そのままタイム差になっていた。


 キックに命をかけていた自分にとって、あの時代は、あまりにも噛み合いが悪かった。


 上半身をもっと鍛えればよかったのかもしれない。でも、入江式フォームへの矯正という運命は避けられなかったはずだ。そもそも、当時の私は自分の特性を十分に理解していなかった。ただ、キックが得意。──それだけだった。




 ──31秒9。


 5年間、まともに泳いでいなかった私が出した記録だ。身体は覚えていた。それはただの技術ではなく、キックにすべてを注いだ日々そのものだった。


 全国の決勝には一度も残れなかった。時代にも適応できなかった。鈴木大地似と言われたのに、その道も選ばなかった。でも、キックだけは誰にも負けなかった。その事実は、5年経っても色褪せていなかった。


 それでよかったのかは分からないが、それが私だった。


 ただ、最近知ったことがある──。


「バックストロークレッジとは? ラスト5mの潜水OKって、もはや違う競技では?」


 結局、時代はキックも活かす方向に進んだみたいだ。壁にかける滑り防止の補助器具がバサロに爆発的なブーストをかけ、キック連打のフォームが主流の今は、ラストの潜水距離のルールをも改正させた。

 

 もし今の時代に現役だったら、と思わずにはいられない。それなら存分に上半身をムキムキにしていたかな。──いや、それでも私なら、キックに傾倒していたと思う。


 でも、「もし」を言っても仕方ない。


 人の少ない電車のホームに降り立つと、ふとバサロの感覚が蘇ることがある。遠ざかる電車のガタンゴトンという振動が、いつの間にか、腹の底に響くボゴンボゴンという水を蹴る音にすり替わる。駅の静まり返った空気が、あのシンとしていない、くぐもった水中の静けさと重なっていく。心臓の音だけが鼓膜と脈動する世界。

 自分の腹筋を目で愛おしみながら、幾万の泡沫うたかたを残して前に進んでいた、あの喜び。──どこにいても、私はまだ水を蹴っている。


 バサロに命をかけていた日々は、もう戻らない。


 でも、この足首だけは覚えている。今でも、不規則に弧を描きながら歩くたびに、水中で何かになろうとした、あの時間を。


 ──これからも、たぶん一緒に歩いていく。

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バサロ 倉田六未 @kuratarokumi

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