ANMBIのある放課後

 放課後の校舎は、まだ完全には静まりきっていなかった。


 一室の扉が開き、生徒が一人、入ってくる。どこか誇らしげで、隠しきれていないニヤついた表情だった。


「……なに、その顔」


 先に部屋にいた生徒が、不思議そうにそちらを見る。


「別に?」

「いや、絶対なんかあるだろ」

「分かりやすすぎ」


 入ってきた生徒は何も言わず、肩をすくめるだけだった。それが余計に疑いを強める。


「なに買った」

「まだ言ってないけど」

「言う流れだろ」


 少し間があってから、本人が口を開く。


「新しいANMBI」


 一瞬、沈黙が落ちる。


「は?」

「マジで?」

「新モデル?」


 視線が一斉に集まる。


「バイト代、全部飛んだ」


 そう言って、本人は苦笑いした。


「で、陽斗。それ、もう触ったのか?」

「充電はした」

「ナノシードは?」

「入れた」


 一瞬、誰も何も言わなかった。視線が交差して、どちらからともなく小さく息が漏れる。

 誰かが椅子を引き、誰かが立ち上がり、それにつられるように全員が席を立った。声を掛け合うでもなく、自然な流れだった。


 廊下に出て、最後に扉を閉める。その表には、手書きの張り紙が貼られている。


 ――ANMBIストラックアウト同好会。


 少し曲がった文字と、何度も貼り直した跡。それを見て、誰かが小さく笑った。


 廊下を歩きながら、誰かが言う。


「顧問、呼ぶ?」


 一瞬、足が止まりかけて、すぐに再開する。


「今どこにいるか分かる?」

「分からん」

「探すの面倒だな」

「というかさ」


 陽斗が、歩きながらバッグの肩紐を直す。


「早く試したくない?」


 その一言で、空気が決まった。


「……まあ」

「だよな」

「あとで見つかったら、言えばいいし」


 誰も深くは考えない。 否定も出ない。


「暴投だけはすんなよ」

「それな」

「校舎裏だぞ」

「分かってる」

「分かってるやつほどやるからな」


 軽口の中に、ほんの少しだけ真面目な注意が混じる。


「危ない使い方したら、普通に没収だからな」

「はいはい」

「笑ってるけど、マジで」


 校舎裏に出ると、空気が少しだけ変わった。 人気はなく、風の音が近い。

 倉庫の横に回り込み、置きっぱなしにしてある板を引っ張り出す。


「……あった」

「相変わらず雑な置き方」

「ここらへんに色々置きっぱなのが悪い」


 角が少し欠けた、ストラックアウト用の目標板。 慣れた手つきで立てかける。


「じゃあ」


 陽斗が立ち止まる。 周りが、自然と一歩下がった。


「起動、ゆっくりな」

「焦るなよ」


 誰も冗談は言わなかった。


「じゃあ……起動な」


 陽斗がボールを持ったまま、少し息を整える。


「ゆっくりでいいぞ」

「焦ると手ぇ出るからな」

「分かってる」


 短く答えて、陽斗は視線を落とした。誰も近づかない。ヘッドセットの受信ランプが点灯した。自然と、一歩分の距離が空く。


「……あ」


 小さく声が漏れる。


 ボールの表面に、ざらついた感触が走った。 指先から離れたはずのそれが、空中で止まる。


「保持、入ったな」

「速くね?」

「新モデルだからだろ」


 ボールは、見えない手に掴まれたみたいに、静かに浮いている。


「触らなくていい?」

「触るな」

「今は触るな」


 軽口の調子はそのままなのに、声は低い。陽斗は頷いて、指を開いたまま動かさない。


「……安定してる」

「無理すんなよ」

「外れてもいいからな」

「分かってる」


 言いながら、陽斗は一度だけ深呼吸した。誰も笑わなかった。誰も口を挟まなかった。

 ただ、全員が同じ一点を見ていた。陽斗は、目標板を見たまま動かなかった。


「……行くぞ」

「力、入れすぎんなよ」

「分かってる」

「分かってるって顔じゃないけどな」


 誰かが小さく息を吐く。陽斗は一度だけ肩を回し、視線を一点に固定した。

 次の瞬間、保持されていたボールが放たれる。


「――」


 音は、思ったより軽かった。

 ボールはまっすぐ飛び、目標板の端をかすめて、そのまま後ろのネットに当たる。

 ほんの数センチ。板に当てるだけなら、惜しいといっていい距離。


 一瞬、誰も喋らなかった。


「……外れたな」


 誰かが言った。

 陽斗は、ゆっくり肩を落とした。


「新モデルでも、さすがに要練習か」


 自分で言って、苦笑いする。


「まあ」

「そんなもんだろ」

「いきなり当たったら逆に怖いわ」


 誰も責めない。がっかりした様子も、大げさには出ない。


「次、もう一回やる?」

「いや、今日はここまでにしとく」

「賢明」


 空気は、すぐに元に戻った。

 ボールは地面に転がり、目標板はそのまま立っている。失敗したという事実だけが、静かにそこに残っていた。


「片付けるか」


 誰かが言って、目標板に手を掛ける。


「惜しかったよな」

「どこ狙ったん?」

「真ん中」

「ダメじゃん」


 陽斗はボールを拾い上げながら、首をひねった。


「感覚は悪くなかったんだけどな」

「まぁ、初回はこんなもんじゃね?」

「保持は安定してたし」


 板を倉庫の横に戻しながら、話は続く。


「次は距離、少し詰める?」

「それか的を大きくする」

「意味なくね?」

「練習だから」


 軽い笑いが漏れる。


「連続でやると、逆に雑になるしな」

「今日はこのくらいでいい」


 陽斗がそう言って、ANMBIをしまう。誰も反論しなかった。


「また放課後な」

「明日?」

「バイトある」

「じゃ、次な」


 校舎の方へ戻りながら、話題はもう別のことに移っていく。試合の話、課題の話、どうでもいい噂話。

 さっきの一投を、誰も引きずらない。


 ANMBIは、バッグの中で静かに収まっている。特別な余韻も、奇跡の気配もない。屋上の向こうでは、陽の光が赤みを帯び始めていた。

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