破:砕けた拍子、役が入れ替わる

太鼓の一打で、世界が「拍」を持った。


それは音の問題じゃない。

時間が、歩幅が、呼吸が、決められた間隔に縛られる。動けば動いたぶんだけ、見えない譜面が先へ先へとめくられていく。


澪の指が俺の手首を引きちぎるほど強く掴んだ。


「目、逸らさないで。おもてを見るな。――見返される」


「もう見てるだろ……!」


喉が震えた。

俺の声は現実に届いている。届いているのに、言葉が俺の口から出た瞬間、舞台の空気に「配役」される感覚があった。台詞として処理される。


暗闇の橋掛かり《はしがかり》で、白い輪郭が一歩進む。

その一歩が、ありえないほど遅い。遅いのに、確実に距離を詰める。


遅いのに――怖い。


止まっているのに緊張を強いる、あの圧。

昔、動画で見た能の歩みに似ていた。理解したくないのに、身体だけが理解してしまう。


澪が歯を食いしばった。


「今は破。だから、……動ける。でも、走るな。急を呼ぶ」


「破? さっきまで序だって――」


「序は終わった。太鼓が入った。今夜はもう戻れない。……説明は後!」


澪は俺を引っ張り、舞台の脇へ回り込んだ。

客席側じゃない。舞台の裏へ。柱の影に隠れるような扉があって、そこがいつの間にか「楽屋の入口」みたいに見えている。


扉を開けた瞬間、冷たい匂いが鼻を刺した。

古い木、紙、香の残り、そして――粉っぽい白。面箱の土埃。


廊下が続いている。

狭い。暗い。なのに、床板がやけに鳴る。音が、舞台の外へ漏れない代わりに、ここで増幅されている。


背後で、地謡じうたいが息を吸った気配がした。


――地謡――

裏へ入れば、裏が表。

表へ出れば、表が裏。

脇は逃げ、脇は追われ、

追うは、面の足。

――――


俺は振り向かなかった。

振り向いたら、舞台の「視線」に捕まる。


澪が廊下の突き当たりを押し開けた。

畳の匂い。鏡。白布。小さな灯り。――鏡のかがみのまだ、と直感が告げる。


そこに、面箱が積まれていた。


祭りの飾りじゃない。

神具でもない。

「道具」でもない。


――役者の顔を、入れておく箱。


「ここ、何なんだよ」


俺の問いに、澪は答えない。

答えられない、が正しい。彼女は俺の手に貼りついたおもてを見て、顔色を失っていた。


「……離れないの?」


「離れないって言うな。離れないって言うな……!」


俺は手を振った。

おもては、揺れない。俺の掌の内側に、根を張っている。


澪が低い声で言った。


「最悪。……おもてに『取られてる』」


「取られてる?」


おもては、持つものじゃない。持った時点で、持たれる。――これ、うちの家の言い伝え」


澪は棚の上から一冊の古い帳面を引き抜いた。

表紙に墨で、細く「節度」とだけ書いてある。彼女の手つきが慣れていた。読むために触れてきた手つきだ。


「毎年じゃない。でも、たまに起きる。正月三が日、世界が舞台みたいになる年がある。……それを『上演』って呼ぶ。うちの家は、その“後片付け”をしてきた」


「巫女バイトの範囲超えてない?」


「バイトはバイト。家は家。……信じなくていい。でも、今は信じろ」


澪は帳面をめくり、俺の前に開いた。


そこには、乱暴な字で短い文が並んでいた。


――脇、面を取らず。

――面を取るは、取られる。

――取られし者、役を失う。

――役を失う者、器となる。


俺の胃が冷えた。


「……器?」


澪が俺の顔を見る。

現実主義者の目が、現実を越えてしまった者の目に変わっている。


ワキは、基本、面を被らない。……でも、あなたは今、おもてに選ばれてる。選ばれてるってことは――」


「やめろ」


「“脇”じゃない」


その言葉は、刃だった。

俺の胸の奥に刺さって、封印していた黒いコートの死体袋を裂く。


――第十三観測者サーティーンス・オブザーバー


あの頃の俺が、歓声を上げる。

「ほら見ろ」と言う。「やっぱり俺は特別だ」と。


俺はそれを、吐き気で押し戻した。


「俺は……ただの一般人だ。面を拾っただけだ」


「一般人は、地謡じうたいの声を聞かない」


澪が言い切った瞬間、鏡の中の俺の顔が、ほんの一瞬だけ歪んだ。


歪んだのは俺の顔じゃない。

鏡の面が、舞台の板みたいに見えた。

その上に、白い仮面の輪郭が重なる。


俺は反射的に目を逸らした。


「見ないで」


澪の声が強くなる。


「鏡は危ない。……おもてを被る前に、鏡を見たら、役が決まる」


「役が……決まる?」


「決まる。固定される。取り返しがつかなくなる」


澪は棚の奥から、白い布を取り出した。

御札のように折り目があり、端に朱で小さく印が押されている。


「それ、何」


「面止め。……うちの家の、せめてもの抵抗」


澪は布を俺の手に巻こうとした。

触れた瞬間、おもてが笑った。


掌の内側で、冷たい視線がひとつ瞬きした。


澪が息を呑む。

布が、焦げた。燃えていないのに焦げる。白布の繊維が黒ずみ、朱印が剥がれる。


「……効かない。そんな、」


「効かないって何なんだよ! 説明しろ!」


俺が叫ぶと、廊下の奥で何かが鳴った。


カン、と。


金属じゃない。木でもない。

硬い空気が割れる音。


澪が顔を上げる。


「来た」


「誰が」


おもてが、次を連れてきた」


俺は背筋が凍った。

“面が次を連れてくる”――意味が分かる。分かりたくないのに分かる。


鏡の間の外、廊下の暗がり。

そこに「影」が現れた。


人の形だ。

けれど、顔がない。


顔の代わりに、白いおもてが浮かんでいる。

笑っている。泣いている。怒っている。――表情が違う面が、二つ、三つ、四つ。

影の数だけ、おもてがある。


おもてだけが、こちらを向いていた。


――地謡――

破の客。

破の役。

破は、変化を尽くし、

尽くして、砕ける。

――――


澪が小さく呟いた。


「面喰い《おもてくい》……」


「何だ、それ」


「顔を奪う。役を奪う。……空っぽを作る」


澪の言葉の最後が、俺に刺さる。


空っぽ。


――役を失う者、器となる。


俺の頭の中に、さっきの帳面の文が反芻される。まるで地謡じうたいが読み上げているみたいに。


面喰いが、一歩進んだ。

足音がない。けれど床板が軋む。軋みが、拍に合わせて規則的になる。


一、二、三。


三つ目の軋みで、面喰いが跳んだ。


速い。

さっきの橋掛かりの一歩とは別物だ。破は変化を尽くす。ゆっくりの次に速いが来る。節度が砕ける。


澪が俺の前に出た。


「下がって!」


彼女は懐から小さな鈴を出した。

鳴らす。――チン、と高い音。音が空気を切って、面喰いの動きを一瞬だけ鈍らせる。


鈍った隙に、澪が畳を踏み込む。

踏み込みが妙に綺麗だ。舞台の足運びみたいに滑る。彼女は現実主義者だ。なのに、身体だけが様式を知っている。


「……家、何やってきたんだよ」


「後で!」


澪の肩が、面喰いの腕に掠った。

白いおもてが笑う。笑っているのに、殺意がある。面の穴の奥が暗い。そこに落ちたら戻れない暗さだ。


俺は、動けなかった。


怖いからじゃない。


拍が、俺を縛っている。


面喰いの動きに合わせて、俺の心臓が打つ。

心臓の打ちに合わせて、身体が次の動作を「待つ」。

待つことが、命取りになるのに。


――これが、舞台の節度。


澪は面喰いを押し返しながら叫んだ。


「朔夜! 息! 息を数える! 拍に合わせるな、自分で数えろ!」


数える。


俺は、昔、数えていた。

妄想の儀式で、真名を刻むとき、呼吸を数えて、間を作って、世界を自分の速度に引き込む。


封印したはずの手順が、勝手に蘇る。


俺は息を吸った。


一。


吐く。


二。


吸う。


三。


その瞬間、耳の奥で何かが「切り替わった」。


世界の拍が、俺の呼吸とズレる。

ズレが生まれた瞬間、身体が軽くなる。縛りが緩む。俺は一歩、踏み出せた。


面喰いがこちらを向く。

白いおもてが、俺を見つけた。


――地謡――

見つけられた。

見つけたのは、面。

見返すは、面。

返すは、誰。

――――


俺は、答えたくなかった。

でも、口が勝手に答える。


「……観測」


俺の声が、舞台の空気に乗った。

台詞として処理されない。宣言になる。


第十三観測者サーティーンス・オブザーバー


その名を、心の中でだけ呼ぶ。


目の前の空気に、薄い線が見えた。


拍子線びょうしせん


目に見えるはずのない区切り。時間の目盛り。舞台の譜面。

面喰いの跳躍も、澪の踏み込みも、その線の上で起きている。線を跨ぐ瞬間にだけ、動きが確定する。


――跨ぐ前なら、まだ変えられる。


俺は面喰いの次の線を見た。

そこへ手を伸ばした。


掌の内側で、おもてが熱を持つ。

冷たかったはずの視線が、今は燃えるように熱い。俺の血と混ざっている。


「触るな!」


澪の叫びが遅れて届く。


俺は拍子線に、指を引っかけた。


引き裂く、というより――ずらす。


譜面の目盛りを、一つだけ外す。


面喰いの動きが空を切った。

跳んだはずの身体が、半拍遅れて落ちる。足元の畳に膝をついた。おもてが驚いたように歪む。


澪がその隙に、鈴をもう一度鳴らす。

チン、チン。二音。面喰いの周囲に小さな白い輪が浮かんで、影の形が崩れた。


しかし――面喰いは一体じゃない。


廊下の奥から、さらに二体、現れる。

おもてが増える。笑い、泣き、怒り。表情の違いが、攻撃の違いになる。


澪が舌打ちした。


「数が多い。……朔夜、おもて、離せる?」


「無理だ。貼りついてる」


「じゃあ、使うしかない」


「使うって、どうやって――」


澪が帳面を開いて、指で一行をなぞった。


――破において、脇は問い、シテは示す。

――問いが尽きれば、急が来る。


「問い?」


「脇の役割。……あなた、脇だと思ってた。だから、問いを投げればいいと思ってた。でも今――」


澪は俺の手を見た。

おもてが、掌の上で笑っている。


おもてを持ってる時点で、矛盾してる。脇じゃない」


俺の口が乾く。


「……じゃあ、俺は何なんだよ」


答えは欲しくない。

でも、欲しい。厨二病の古傷が疼く。正体を知りたがる。


澪が言いかけた、その瞬間。


面喰いが一斉に動いた。

拍子線が乱れる。四本、五本、同時に跨いでくる。破は変化を尽くす。節度が砕ける。速さが増す。


俺の観測が追いつかない。


「っ……!」


背中が冷えた。

次の瞬間、俺の視界が白で埋まる。


おもてだ。


面喰いのおもてが、俺の顔に押し付けられようとしている。奪う。顔を。役を。空っぽを作る。


澪が割り込んだ。

腕で弾く。鈴を鳴らす。けれど一瞬遅い。


おもてが、俺の鼻先に触れた。


触れた瞬間、俺の掌のおもてが――跳ねた。


まるで嫉妬するみたいに。

まるで「それは私の顔だ」と言うみたいに。


掌のおもてが、俺の顔へ向かって滑った。


俺は叫んだ。

叫んだのに、声が薄い。

薄い声の代わりに、地謡じうたいが息を吸う。


――地謡――

被るな。

被れば、役が定まる。

定まれば、戻れぬ。

――――


遅い。


おもては、もう俺の顔に触れていた。


冷たい。

視線が、眼球の上を滑る。


世界が、ひゅっと狭くなる。

舞台の四本柱が視界の端に立ち、鏡板の松が背中に生える錯覚。

俺の身体の重心が、勝手に「型」に収まる。


足が、半歩だけ滑った。


能の足運び。

擦るように、音を殺して、確実に前へ。


面喰いが、一瞬だけ止まった。

澪も止まった。


俺自身も、止まった。


止まったのに、緊張だけが増える。

止まっているのは休みじゃない。次の動作へ圧を溜める時間。


俺は、自分の口で言った。


「……黙れ」


誰に言ったのか分からない。

面喰いか。地謡じうたいか。おもてか。――昔の俺か。


次の瞬間、俺は踏み込んでいた。


踏み込みの瞬間、拍子線が一本、はっきり見えた。

俺はそれを掴むんじゃない。跨ぐ。踏み越える。譜面の中で動く。


掌が、勝手に面喰いのおもてを払う。

触れただけで、白い仮面の輪郭が砕ける。砕けた破片が空気に溶ける。影が崩れる。


――俺の動きじゃない。


おもてが俺を動かしている。


澪が震える声で言った。


「……やめて。被っちゃだめ」


俺は答えられない。

答える口が、もう俺のものじゃない。


面喰いが二体、同時に来る。

俺は半身で避け、避けたまま空気を切るように手を振った。切ったのは風じゃない。拍子だ。間だ。節度だ。


二体の動きが、同時に崩れる。

崩れる瞬間、白いおもてが俺を見た。

穴の奥の暗さが、俺の内側に似ていた。


――役を失う者、器となる。


俺は、分かった。


俺の中は、空っぽだ。

空っぽにした。痛い自分を殺すために。厨二病の俺を埋めるために。

空っぽになった場所に、おもてが座っている。


澪が俺の腕を掴んだ。


「外して! お願い、外して!」


その言葉が、現実に届いた。


俺は顔に手を当てた。

おもてがある。あるのに、手触りがない。皮膚と面の境目が消えている。


恐怖が遅れて来た。


「外れない……!」


俺が呻いた瞬間、廊下の奥の空気が、すっと整った。


乱れていた拍が、一本に揃う。

砕けていた節度が、仮に修復される。――まるで誰かが指揮を取ったみたいに。


橋掛かり《はしがかり》の方から、風が吹く。


そして、足音。


今度は、聞こえた。

床板を擦る、ゆっくりの足音。重い。確実。止まっているのに圧が増える。


俺の身体が勝手に、正面へ向いた。


おもての内側で、笑い声がした。

俺じゃない誰かの笑い声が、喉の奥で鳴った。


廊下の暗がりに、白い輪郭が立つ。


おもてを被った者。


さっき見た「橋掛かりの影」だ。

顔があるはずなのに無い。おもての穴の奥が、底無しに暗い。そこに、舞台の夜が詰まっている。


澪が息を呑む。


「……シテ」


おもての者は、ゆっくり首を傾げた。

笑っているのか泣いているのか分からない顔で、俺を見た。


そして、囁いた。


「序の脇は、間に合わぬ」


声が、二重に聞こえた。

男の声と、女の声が重なるみたいに。地謡じうたいが混ざるみたいに。


「破は、役替え」


おもての者が、一歩、こちらへ来る。

その一歩で、鏡の間の空気が冷える。畳が舞台の板に変わる。鏡が、黒い海になる。


澪が震える声で叫んだ。


「朔夜、目を閉じて! 見たら、固定される!」


俺は目を閉じられない。

おもてが、見開かせる。


おもての者が、言った。


ワキではない」


俺の胸が、ひゅっと縮む。

澪が言いかけた言葉。帳面の文。全部が一本に繋がる。


うつわよ」


おもての者は、まるで祝詞みたいに言った。


からの名を持つ者よ。面が座るに足る者よ」


俺の名前――朔夜さくや

夜の欠片。形のないもの。空っぽの象徴みたいな名。


澪が叫ぶ。


「違う! 朔夜は――」


「違わぬ」


おもての者が、ゆっくり手を上げた。


その瞬間、俺の中の拍子線が跳ね上がった。

視界に線が増える。時間の目盛りが細かくなる。世界が、急に忙しくなる。


胸が痛いほど速く打つ。


――急。


俺は、その単語を口にしていないのに、世界がその方向へ引っ張られる。


おもての者が、最後の一言を落とした。


「急は、既に始まっている」


次の瞬間、外の世界の音が、壁を貫いた。


初詣の雑踏。

車のエンジン。

誰かの「あけましておめでとうございます」が、早送りみたいに重なる。


俺のスマホがポケットの中で震えた。

画面を見る余裕もないのに、数字だけが脳に焼き付く。


1月2日、23:59。


一秒が、二秒飛び、三秒飛び、十秒飛ぶ。


澪の顔が青ざめた。


「……早すぎる。破なのに、急が食い込んでる」


おもての者が、橋掛かり《はしがかり》の闇へ溶けていく。


残されたのは、地謡じうたいの息だけ。


――地謡――

破は砕け、

急は忍び、

忍び寄るは、拍の影。

留める拍子を、誰が知る。

――――


俺は、おもての内側で、初めて泣きそうになった。


俺は脇じゃない。


じゃあ俺は――この上演の、何だ。


急が来る。


いや、もう来ている。


俺の中で、おもてが笑った。


※本作は生成AIを用いて本文を生成し、作者が編集・調整しています(AI本文利用)。

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2026年1月3日 21:13

一具《いちぐ》――序破急が終わるまで、世界は舞台だ ヒトカケラ。 @hitokakera

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