一具《いちぐ》――序破急が終わるまで、世界は舞台だ
ヒトカケラ。
序:無拍の夜、面が笑った
音が、なかった。
年越しの神社は、普通なら騒がしい。
屋台の油が跳ねる音。湯気の中の笑い声。鈴の余韻。足元で雪を踏む乾いた軋み。そういう「生きている雑音」が、正月の空気を現実に縫い付ける。
俺――
だから、イヤホンを付けたまま初詣に来た。ノイズキャンセリングで現実を薄めて、参拝だけ済ませて帰る。そういう、まともな大人のフリをするために。
たった一人で行動するのは、癖だ。
集団が苦手だからじゃない。苦手なのは、集団が生む「共通のテンポ」だった。笑うタイミング、相槌の速度、歩幅の揃い方。あれに合わせると、俺の中の何かが削れる。
昔は逆だった。
俺は「テンポ」を作る側だった。周囲に合わせるんじゃなく、周囲を巻き込んで、自分の妄想を現実に似せていく。――そういう病気だった。
高校二年の冬、俺は自分を「
世界の裏側にある〈設定〉を見抜けるだとか、真名を刻めば運命は書き換えられるだとか、そんな、痛くて眩しい言葉を本気で信じていた。
屋上で「封印」を誓い、誰もいないのに「俺を呼ぶな」と言った。
今思い返すだけで背中が焼ける。けれど、その焼け跡はまだ消えていない。消えるどころか、こういう夜にだけ、妙に鮮やかになる。
……だからこそ、今夜は早く帰るつもりだった。
参拝の列に並んで、賽銭を投げて、二礼二拍手一礼。
手を合わせた瞬間、なぜか「拍手」が空っぽに聞こえた。音が薄い。打った感触だけが残って、響きが返ってこない。
俺は眉をひそめ、イヤホンを外した。
それでも、世界が静かだった。
静か、というより「欠けている」。
音量が下がったんじゃない。あるはずの部品だけが最初から存在しないみたいに、空白が耳の奥に貼りついている。
息を吸う。
白い息が出た。寒い。吐息の白さだけが、やけに鮮明だ。
「おい」
心のどこかで、誰かが俺を呼んだ。
――やめとけ。
声は、俺自身のものだった。
捨てきれない古傷の口調。黒いコートの裾が床に擦れる気配。意味のない英単語が並ぶノートの感触。
境内の端、杉の影に隠れるようにして、古い舞台があった。
奉納の能や狂言が掛かるという話は聞いたことがある。けれど今は照明も落ち、立入禁止の札が寂しく揺れているだけだ。
なのに、そこだけが――音の欠けが濃い。
足が勝手にそっちへ向かった。
自分の歩幅が分からない。
右足と左足の間に「拍」が無い。歩いているのに、歩いている感覚だけが遅れてついてくる。
まるで俺の身体だけが、別の進行に合わせさせられているみたいに。
柵の隙間から覗き込んだ瞬間だった。
舞台の板の上に、白いものが落ちていた。
能面だ。
白く、滑らかで、どこか幼い。
笑っているようで、泣いているようでもある。ライトが当たっていないのに、目の穴の奥だけが妙に暗く、奥行きを持って見えた。
落とし物にしては、場違いすぎる。
俺は柵に手を掛けた。
立入禁止の札が、やけに軽く揺れる。……揺れたはずなのに、その音が聞こえない。
一歩、足を入れる。
二歩。
舞台の縁まで来て、
指先に、冷たさが貼りついた。
氷じゃない。石でもない。ひとつの「視線」だ。持った瞬間、面が俺を見返した。
――地謡――
しづけさは、序。
序は、終わりの胎を抱く。
面は笑い、笑いは泣きを呼ぶ。
――――
耳元で、誰かが歌った。
群衆のざわめきの中で、そんな声が聞こえるはずがない。
なのに確かに、背中の後ろに複数の息遣いがある。言葉が、合唱みたいに重なっていく。
俺は振り向いた。
誰もいない。
境内の灯りが、一瞬だけ遠ざかった。
世界のスケールが狂う。舞台の板目が急に巨大に見える。杉の影が奈落みたいに深くなる。
「……なに、これ」
声が掠れた。
自分の声なのに、現実の音として届いていない感覚。喉だけが動き、空気に乗らない。
その時、面の目の奥が、ふっと明るくなった。
反射じゃない。灯りじゃない。
面の内側から、光が漏れた。
そして――世界が、割れた。
境内の喧騒が、スッと遠くへ退いた。
遠ざかったというより、舞台の外へ押しやられた、と言うほうが近い。俺の足元から半径十メートルほどが、別の現実に塗り替えられていく。
板敷きの匂い。
松明の煤。
冷えた白檀みたいな香。
舞台の正面にあるはずの柱が、いつの間にか四本きっちり立っていた。
黒い。高い。まるで「ここから先は舞台だ」と告げる結界。
舞台の側面に、一本の細い通路が伸びた。
橋のように、斜めに。暗闇へ向かって。
俺は、その言葉を知っている。
舞台へ入るための、道。
「……嘘だろ」
俺の厨二病は死んだはずだ。
封印した。墓に埋めた。鍵を掛けた。二度と開けないと決めた。
なのに今、世界がその単語を要求してくる。
呼び出せ、と。
俺は
舞台の板の上に戻す。落とし物なら、それでいい。俺は舞台から降りて帰る。
……帰れる。
そう思った。
指が、開かなかった。
――地謡――
取る手は、取られる。
拾うは、拾われる。
――――
「……っ」
俺が呻いた瞬間、背後で足音がした。
今度は、ちゃんと現実の足音。
細かい砂利を踏む、焦った足音。
「それ、拾っちゃった?」
声がする。
俺は振り向いた。
巫女装束の少女が、舞台の外縁に立っていた。
白い小袖、朱の袴。髪はきっちりまとめているのに、前髪だけが乱れていて、走ってきたのが分かる。
目が、冷たい。
人を責める冷たさじゃない。規則を破った者を見る、機械みたいな冷たさ。
「返して。今すぐ」
「……誰だよ」
「この神社でバイトしてるだけ。
“
その言い方が、現実の単語と違った。
舞台の人間の言い方だ。
俺は
白い頬、切れ長の目、わずかに上がった口元。
さっきよりも、表情が「笑い」に寄っている気がする。触っている俺の心臓の鼓動を、面が真似しているみたいに。
「これ、何なんだよ。……何が起きてる」
澪は唇を噛んだ。
迷っている。言うべきか、言わざるべきか。けれど次の瞬間、彼女は諦めたように息を吐く。
「……聞こえた?」
「何が」
「歌。
俺の背筋が冷えた。
さっきの声。合唱。あれを、彼女は“地謡”と呼んだ。
「聞こえたなら、もう舞台の内側。あなた、
「ワキ?」
口に出した瞬間、単語が脳内で勝手に展開する。
能の役割。シテの相手役。物語を現実へ繋ぐ観客の代理。……そして、最後に“止める”側。
「冗談だろ。俺、ただ面拾っただけで――」
「冗談なら良かった」
澪は舞台を見上げた。
柱の影が、一本だけ濃い。そこに“誰か”が立っている気配がある。姿は見えないのに、視線だけが刺さってくる。
「今夜は『序』。まだ、戻れる。まだ――舞台から降りられる」
「序……?」
俺が呟くと、
確信した。今、
澪が言葉を続ける。
「三日だけ。正月三が日。世界は、上演される。序・破・急。……それが終わるまで、外側には戻れない」
「世界が、上演……?」
馬鹿げている。
こんなの、昔の俺が好きそうな妄想そのものだ。
でも、目の前の舞台は現実だ。
俺は笑えない。
「……なんで俺が」
「拾ったから」
「そんな理由で、世界が」
「世界は理由で動かない。動くから理由が生まれる」
澪は、そう言ってから、自分でも嫌になったような顔をした。
現実主義者が、現実を裏切られ続けて、言葉だけが儀式に寄っていく顔だった。
「今年は……
「いちぐ?」
「序破急を、通す。途中で止めない。止まらない。……だから、最初の“拾い”が致命的になる」
澪の声が、ほんの少しだけ震えた。
「……ねえ。あなた、昔、重度だったでしょ」
「は?」
不意打ち。
俺の中の黒いコートが、死体袋の中で動いた。
「顔に書いてある。今も、書いてある。……
「やめろ。俺はもう――」
「もう、じゃない。まだ」
澪は俺の手から
指先が触れた瞬間、彼女の瞳が僅かに揺れる。恐怖じゃない。苛立ちだ。悔しさだ。
「……しまった。あなた、
「選ばれる? 誰に」
「
澪は言い切った。
その瞬間、舞台の奥から、風が吹いた。
寒い。冷えた風じゃない。古い時代の匂いを運ぶ風。松明の煙と、汗と、香。
足音は聞こえない。
聞こえないのに、近づいてくるのが分かる。
気配が、舞台へ向かって真っ直ぐ進行している。
無拍子の進行。
俺の喉が、勝手に言葉を絞り出す。
「……シテ」
澪が顔を歪める。
「言わないで」
「何でだよ」
「呼ぶから」
呼ぶ。真名。儀式。
……俺の古傷が、嬉しそうに疼く。
暗闇が、少しだけ濃くなる。
そこに、白い輪郭が浮かんだ。
別の
さっきの
その“
被っているのに、被っていない。
顔があるのに、顔が無い。
「来る」
澪が短く言った。
彼女は俺の手首を掴んだ。
細い指なのに、痛いくらい強い。
「走って。……いや、走っちゃだめ。今は序。急ぐと、破が早まる」
「何言って」
「序破急は、ただのテンポじゃない。……節度。世界の進み方そのもの」
澪の言葉が終わる前に、境内の外側から、歓声が届いた。
“外側”の音。
遠くで、誰かが笑っている。
年が明けたのだ。
花火の音が、遅れて転がってくる。
――パン。
その破裂音だけが、妙に鮮明だった。
そして、それに重なるように。
舞台のどこかで、太鼓が鳴った。
一打。
重く、短く、腹の底へ落ちる音。
無拍子の世界に、一本の杭が打ち込まれるみたいに。
その瞬間、すべてが「拍」を持った。
空気が震え、柱が鳴り、
境内の外側の喧騒が、こちらへ流れ込もうとして、透明な壁にぶつかる。
澪が唇を噛んだ。
「……聞いちゃった」
「何を」
「破の合図」
俺は、
逃げたい。逃げられない。
笑いたい。笑えない。
足音は、聞こえない。
代わりに、
――地謡――
拍子が生まれた。
世界が、割れる。
――――
……今、
俺の役割が、まだ決まっていないからだ。
観客の代理か。生贄か。あるいは――。
俺は理解した。
今夜は序だった。まだ戻れるはずだった。
でも、たった一打で、世界は破へ向かってしまう。
正月三が日。
三話で終わる上演。
――そして俺は、観客ではいられない。
破が、来る。
※本作は生成AIを用いて本文を生成し、作者が編集・調整しています(AI本文利用)。
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