【短編】心からの祝福を君に

しずる凛

彼と私

 小説家人生も25年目に入った。


 ミステリーを専業として、はや25年。私ももう50歳である。


 脳はまだ戦える感覚であるが、体の節々に不調は出てきている。

 特に少しでも執筆を続けると腰が痛くなるようになってきた。私は休憩を兼ねて、玄関にあるポストを覗きに行く。


 おおかたチラシを捨てる作業に等しいものとなるだろう、そろそろ近隣の住人のように「チラシ投函禁止」のステッカーでも貼るか、と考えてポストを覗いたのだが、想定外に見慣れないものが入っていた。


 洒落た白封筒に入った一通の手紙である。


 綺麗な字で「大西和隆様」と私の名が書いてある。偏見だが女性の字に見える。


 私に手紙を寄越す関係性の女性など居ただろうか?


 妻子は居ない。若かりし頃に数人付き合った女性は居たが、今更彼女らが連絡してくるとは思えない。

 まさか恨みを買われているということもあるまい。


 疑問に思いながら、封を破る...。


「大西和隆様


 突然のご連絡、大変恐れ入ります。

 私貴殿の高校時代の友人である、遠藤秀三郎の妻でございます。


 彼は3ヶ月前に亡くなりました」


 そこまで読んで手紙を置いた。


 遠藤秀三郎。


 彼が亡くなった。


 彼が。


 高校時代の同級生ではあったが、別々の大学に進学。卒業して以後は、法学者として活躍していると風の噂で聞いたくらいで、特に連絡も取っていなかった。


 彼に妻が居たことすら、私は知らなかった。


 しかし、何故このような気持ちになるのか。


 震える手を押さえ、続きに目を通す。


「このことで貴方に依頼したいことがございます。

 ご都合のつく機会に、以下の住所にお越しいたらだけませんでしょうか。


 東京都杉並区高円寺〇〇


 ご足労をお掛けすることをお詫び申し上げます。」


 そこまで読んで、私は居てもたってもいられなくなり、席を立った。

 すぐに荷物をまとめ、記載の場所に向かった。


 高円寺ならば、中野区にある私の家からすぐ傍である。

 まさかこれ程近くにずっと居たとは。


 連絡してから訪問するのが筋だろうが、手紙には住所の他、電話番号もメールアドレスも、何も書いてはいなかった。


 駄目であれば帰ろう。その気持ちで、私は電車に飛び乗った。


 ◇◇◇


 高円寺駅で下車し、さらに5分ほど歩いたところにその家はあった。


 小ぢんまりとしているが、雰囲気のある一戸建てである。


 婦人は在宅しているだろうか。

 駄目元で訪ねてきたが、出来ることならすぐに会いたかった。


 はやる気持ちでチャイムを鳴らす。


 ピンポーン。ピンポン。


 数秒経っても、インターフォンからの返事はない。


 ...と、扉が開いて、感じの良い婦人が出てきた。

 私を見て目を丸くしている。


「あ、あの私、大西和隆と申します。手紙をいただきまして...」


 婦人は一層目を見開き、すぐににこやかな表情に戻る。


「ようこそ、おいでくださいました」


 応接間に通され、婦人とアンティーク調のテーブルを挟む形で着席する。


「遠いところをわざわざ、お疲れになったでしょう」


「いえ、近かったものですから...こちらこそ突然伺ってしまいすみません。居ても立っても居られず」


 婦人は弱々しく微笑む。


「突然あのような...驚かれたでしょう。」


「いえ...ご愁傷様でございました」


 いえ、と婦人は力弱く微笑んだ後、はっきりと私を見据える。


「今回あなた様をお呼びしたのは、他でもありません。

 主人の死の真相を暴いてほしいのです」


「...真相?」


 予想外の言葉に声が詰まった。


 婦人はかまわず、事の概要を説明し始める。


「夫が亡くなったのはもう3ヶ月になります。

 夫は登山を趣味としておりまして、子供が小さいうちは控えてくれていたのですけれど...子供も成人しましたので、私もあまりうるさくは言わなくなったのです。

 そして彼も安全に配慮してはいたのですが...3ヶ月前の登山で、彼は崖から転落死しました」


 肝が冷える。

 話の内容にもだが、まず彼には子供が居たのか。

 子供が産まれて、その子供が成人するほどの年月。


 改めて、我々の間に隔たれていたものの大きさを強く感じる。


「私も悲しみましたが、夫の過失ということで納得はしたんです...

 しかし2週間前、夫の遺品整理をしていた時のことです。このような紙を夫の部屋で発見いたしました」


 婦人はそう言って、紙を机の上に出す。

 内容は以下である。


「私は殺されるかもしれない。もしものことがあれば、全てを旧友である大西に頼みたい」


 驚いた。

 なぜ、私なのだ。


「大西様のことは、私も時折彼より聞いておりました。中学・高校通しての良き友人で、ライバルであったと...とはいえそれほど頻繁ではなかったものですから、こういった形で名前が出てきたことには驚いたのですけれど」


 私も驚いた。

 彼は私のことを、奥方に話していたのか。


 そして、ライバル、か...。


「ご事情は承知いたしました」

「私にも何故私なのかよく分からないところはありますが...若かりし頃、彼には色々と世話になりました。駄目で元々、あまり期待はしないでいたりだきたいのですが、出来ることはやってみます」


 彼の妻はええ是非是非と喜んでくれた。


 私は家を出る。


 彼の妻から、取り敢えず彼が教鞭を取っていた大学の住所を入手する。


 ここに行って何かが分かるものだろうか。確証はないが、ちょっとした探偵気分で私は再び電車に乗り込んだ。


 電車に揺られながら、私はあの頃のことを思い出す。


 学生の頃。


 若き日の彼と私。


 ◇◇◇


 私は何というか、人から褒められることが非常に苦手な子供であった。


 ゆえに、それを回避する術を早くに身につけた。


 道化になるのである。


 幼い頃より勉強はよく出来たが、それをひけらかすことは決して行わなかった。


 そして、日常生活においては出来るだけ気を抜くことを意識した。


 そうすれば周囲は、「勉強は何故か出来るが本来は阿呆なヤツ」として私を扱ってくれる。もしくはその逆、「阿呆だが実はデキるヤツ」という位置付けになれる。これは実に美味しい立ち位置なのだ。


 高等学校に上がっても私のそのような振る舞いは継続されていた。


 ここでの級友たちも慣れたもので、私を理想的な態度で扱ってくれる。

 しかしそのような私を舐め腐った級友のうち、一人私を冷静に見ている人物が居た。彼が、遠藤秀三郎である。


 遠藤は根っからの努力家タイプであった。成績はいつも彼が1番、私が2番であった。


 周囲は我々を勝手にライバルだと認識していたもうだが、我々は良き友人であった。


 私は二、三度、彼の家に遊びに行った。


 何より彼を隠れ蓑にできる状況は、私にとって非常に都合が良かったのだ。


 その後我々は同じ帝国大学を目指し、互いに切磋琢磨し...


 ◇◇◇


 ここまで思い返したところで、気づけば目的地に到着していた。


 彼が教鞭を取っていたという、近隣の大学である。


 どぎまぎしながら法学部棟へと足を踏み入れた。

 適当にではあるが、取り敢えずそこに居た学生に話し掛ける。


「あの、君」


「遠藤教授についてお聞きしたいのだが」


 途端に学生たちは神妙そうな顔になる。

「遠藤教授...」

「亡くなったんですよね。俺らも法学部ではありますけど、たまに授業受けるだけで。あんまり、関わりはなかったんですけど」


「そうだよね」

 学生と教授に、それほど濃密な関係があるとも思えない。

「あ、でも」

 一人が口を開く。

「向井なら何か知ってるかも」


「向井」


「あーうん。よく遠藤教授と話してたよな」


「その子って今どの辺りにいるか分かる?」


 彼はさっと時間割を確認してくれる。

「向井のクラス、今フランス語だから待ってたら出てくるかも。サボってなければだけど」


 彼に授業が行われている教室を聞いて、礼を言って立ち去る。


 ◇◇◇


「向井君」


 先程の学生から教えてもらった情報を頼りに、教室から出てきた、小柄なその彼に話しかける。


 大きな目を見開いている。大学生にしては随分中性的な男の子だった。


「遠藤教授のことで、話を聞かせてもらえないかな」


 ◇◇◇

【向井修司の証言】


 はじめまして、向井修司って言います。


 三山から聞いたんですね?あいつお喋りだから。


 そう、俺と遠藤教授は仲良かったですね...授業は、たまに受けることがあるくらいだったんですけど。


 俺は割と遠藤教授がやってる授業興味があるところだったから、授業終わりに質問とかしてたんです。真面目でしょ。


 結構話しやすい人だったから、だんだん雑談なんかもするようになって。奥さんどんな人なんですかとか、休みは何するんですかとか。それで、3ヶ月ちょっと前のあの時...授業終わり、いつものように質問してたんですが、次の日教授は珍しくお休みをとってて、授業は休講になる予定でした。そんなに興味もなかったけど、雑談っぽく、どこか行く予定なのかと聞いてみたんです。


 そしたら思ったより真面目に返されて、「その日には約束があるんだ」って。


 奥さんとデートかなと思ってたんですけど、違ったんですかね。結局そのお休みの後、教授は帰ってこなくて...もう少し色々聞いておけば良かったな。

 聞いたところで、俺に何ができたんだって話ですけど。


 ◇◇◇


 向井君に礼を言って、大学から立ち去った。


 私は彼に聞いたことを整理する。

 遠藤は誰かと約束をしていた。


 向井君の話していた休講の日程は、遠藤の妻から聞いた、遠藤の山に行った日とぴたり一致していた。

 おそらくはその日、遠藤は山に出かけたのだろう。

 そして一人ではなく相手がいた。


 そしてその何者かと、彼は山で何者かと揉めることになった...。


 私は婦人に電話を掛けた。


「もしもし奥さん。彼は山には、一人で登ったのですよね?」


「私はそう聞いていましたが...何かおかしなことが?」


「いえ...念の為なのですが、誰か彼と親密な関係にある登山仲間などが居れば教えて欲しいのです」


「...」


「申し訳ございません...私も夫の趣味のことには口出ししていませんでして...そんな人が居たのかどうかすら...」


 煮え切らない返事をする奥方に、何というか淡白なところがある夫婦関係だな、と思った。それも彼らしいか。


 人の伝手は手に入らなかったが、奥方から彼が最期に登った山の情報を手に入れることができた。

 一度、そこに向かってみる。


 その山は千葉の方にあり、今度はなかなかの大移動である。


 私は電車に乗り込み、ボックス席の窓際に座る。

 人があまりおらず、居心地の良い電車であった。


 私は有線イヤホンを装着し、変わりゆく風景を眺めながら、再びあの頃に思いを馳せていた。


 ◇◇◇


 ライバルと呼ばれた私と彼は、流されるように同じ帝国大学を受験した。


 その結果は意外なものであった。


 彼は落ち、私は合格したのだ。


 とはいえ彼の受験した学部は私のそれより難易度の高いものであったし、何より彼は同時に受けていた同難易度ほどの私立大学に見事合格していた。

 意外ではあったが、彼はそれほど気にしていないものと思っていた。


 すっかり学校に来る生徒も少なくなっていた受験期の折、結果発表以来私が再び彼に会ったのは、卒業式のことであった。


 廊下で彼と目が合った。

 私は彼を友達とは思っていなかったが、ある種で強く関わりがあった人間であると認識していた故、気軽に声を掛けた。

 当時流行っていたように、卒業アルバムにサインでも貰おうかと思ったのである。


 しかし声を掛けた瞬間、彼は私を横目で見、憎々しげな目でこう言った。


「ライバルだと思っていたのに」

「嫉妬だよ、嫉妬」


 彼は舌打ちをし、その場を離れた。


 私は驚いた。


 結果としては彼は私とそう変わらない難易度の私立大学に行くのだから、嫉妬する理由もないではないかと思ったのもそうであったし、

 そもそも彼に嫉妬の感情があったことに驚いていた。


 記憶の中の彼はいつもにこやかであり、ライバルというのも周囲が勝手に言っているだけ、彼自身にその手の感情は無いと思っていた。


「...っ」


 私は不思議と湧いた腹の奥の痛みを耐えるようにして、何とか家に帰った。

 その後の春休みにも、もはや誰ともはしゃぐ気にもなれなかった。

 あの目だけが、ずっと心の奥に刺さって抜けなかった。


 そしてその卒業式の日以降、私と彼が会うことは二度となかった。


 彼は法学部にそのまま残り、学者になったと風の噂で聞いていた。それだけだ。


 しかしやはり私の心の奥にはいつまでも彼のあの目があった。

 私が作家を志したのは、アカデミアの世界で生きることにした彼と同じ土俵に立ちたくなかった、なるべく離れた世界に居たかったのがひとつの理由かもしれない。


 ◇◇◇


 いつの間にかうたた寝をしていた。

 車掌が終点の駅の名前を叫んでいる。


 私の降りる駅である。


 彼のよく登るというその山に行くには、駅からさらにバスに乗らねばならなかった。


 バスに揺られるうち、周囲の景色は緑一色になってゆく。


 途端にバスが止まる。


 私の他には4、5人ほどしか乗っていなかった乗客が、どうしたのかと不安そうに立ち上がる。


 運転手が外に出て、何やら確認している。途方に暮れた様子である。


「すみません、野生動物が飛び出してきた影響で、部品に破損が見られます。今地元のガイドさんに救援を求めております。恐れ入りますがそのままで今しばらくお待ちください。...」


 私は大丈夫だが、他の乗客たち(特に老人たち)にとってはかなり不安を煽る状況になってしまった。


 しかし、救いの手は思ったよりも早く差し伸べられた。


 30分ほど待つと代理のバスがやってきて、乗客たちはそちらに乗せられることとなった。


 そのバスに乗っていたのが、おそらくは「地元のガイドさん」であろう、タスキをかけた体格の良い男子であった。大学生くらいだろうか。先ほど話した向井君とはまた別のタイプの、溌剌とした青年であった。


「はじめまして!僕山王御影といいます」


 そんな自己紹介から始めた彼は、不安そうであった4、5人の乗客たちに色々と話しかけ、見えてきた山々の解説をし、乗客たちの不安を和らげてくれた。


 お陰で降りる時には、老人たちも含め皆柔らかい表情になっていた。


 無事登山口に到着し、降りる時私は彼に一言かけた。


「先程はありがとう。助かったよ」


 彼は眩しい笑顔でニコッとし、快活に話しかけてきた。


「どういたしまして!今日はこれから登られるんですか?」


「いや...そういうわけでもなくて」


 迷ったが、ここに来た目的を彼に説明した。

 遠藤という男の死の謎を探っていること。法学部の向井くんから、何者かと当日会う約束をしていたと聞いたこと。どうやらその日はこの山に登っていた可能性が高そうであること。


 話を聞き終わると、彼は神妙な顔で言った。


「それ、俺かもしれません」


 彼は話し始めた。


 ◇◇◇

【山王御影の証言】


 改めて、山王御影といいます。

 〇〇大学、法学部に在籍しています。そう、遠藤教授とも向井とも、何回か会ったことがありますよ。

 ご覧の通り、僕はこの山でガイドのアルバイトをしているんですが...

 遠藤教授はプライベートで何回かこの山に来ていて、数回案内しました。それで親しくなったんです。


 遠藤教授が亡くなったの、3ヶ月前のことですよね。その日も俺、案内する予定でした。

 今日は是非君に案内して欲しい、って言われて。何だか真剣でした。

 見頃だし、撮りたい景色でもあるのかな、と思って。いつも以上に勉強して行ったんです。


 遠藤教授が到着した後、いつものように花やなんかの説明したんですけど。麓あたりで、もうここでいい、って言われて。その後は一人で登っていきました。


 当番が終わって家に帰った後、遠藤教授が崖から落ちたらしい、って連絡があって...そこそこ登山の回数も重ねて、ベテランになってきたからって油断してました。あそこで俺がついて行ってたらって、後悔してもしきれないです。


 ◇◇◇


 私は東京に戻り、例の高円寺の家の応接間で、婦人と向かい合って茶をすすっていた。


「謎は解けましたか?」


「そうですね」


 私は2人に聞いてきたことをかいつまんで話した。


「そうですか」


「やはり、事故だったんですね」


 婦人は目を伏せる。


 そして、にこっと笑う。


 婦人は何やら白いものを取り出し、テーブルの上にそっと置く。

 手紙であった。


「許してね。私本当は、夫が誰かに殺されたなんて最初から思っていないのよ。」

「ただ、夫の遺言に従っただけなの」


 手紙の面には、整った字で「大西君へ」と書かれている。


「お許しください。彼はきっと、最期に貴方に勝ちたかったのではないかしら」


 私は手紙に目を通す。


「大西君


 久しく会っていない身でありながら、このような不躾な依頼をすることをお詫び申し上げる」


「もし私が何らかの理由で死を迎えることがあったならば、その時は」


「私の死を題材として、とびっきりのミステリーを作ってくれないだろうか」


「どのように脚色して貰っても良い。どうか、私の死を君の手で魅力的な物語にして出版して貰えないだろうか」


 それだけであった。


「...これが」


「そう、遺書」


 何度も何度も、その文字を読み返す。


「夫はよく貴方の作品を読んでいました」


「きっと、貴方のファンだったのだと思いますよ」


「「殺されるかもしれない」だなんて。きっと自分の身に何らかの形で死が訪れた時、貴方にどうにかしてミステリー仕立てにして欲しかったのね。私も薄々分かってはいたけれど、乗っかってあげたほうが主人の意に沿うんじゃないかしらと思ったの。迷惑をかけて本当にごめんなさい」


 謝りながら、しかしいたずらっぽく婦人は言う。


 何という迷惑な話か。と思いつつ、はは、と笑ってしまう。笑いながら、何故だか涙が溢れた。


「さようなら」


 誰に向けてでもなく一言、それだけを呟いた。


 ◇◇◇


 彼の家から帰りながら、風景に目をやる。


 青かった空は、いつの間にか夕焼けに包まれ、もう少しで訪れる夜の匂いすら感じさせる。


「...遠藤君」


 何ともなく、彼の名前を呼んだ。


 ...


 そうだ。


 あの日、私は。


 ◇◇◇


 私と彼が18歳だった頃。高校3年生の、3学期。


 受験した帝国大学の試験科目のうち、私がもっとも苦手としていた、そして彼がもっとも得意としていた、地歴社会の試験での出来事であった。


 私が受験した文学部も、彼が受験した法学部も、必須としていた科目であった。

 そして偶然にも、その教室で私は彼の真後ろであった。


 やる気のなさそうな初老の試験官。後ろの方まで見回りに来るはずもない。


 最初は、何も考えていなかった。


 しかし、大体の回答を記入し終えた頃。


 彼が寝ていることに気がついた。

 そして彼の回答は、私の位置から丸見えであった。


 見るつもりはなかった。


 しかし。


 気がついた時には遅かった。


 彼の解答用紙には、私が思い出せそうで思い出せなかった言葉が、沢山詰まっていた。


 そして私は、彼の回答が一行ずれていることをも発見した。


 あれが彼と私の合否の境目となったのか。


 この事は誰にもバレなかった。


 否そもそも、5教科のうちたった1教科の一部分、写しただけのことだ。

 他の科目で彼が酷い点数を取っていて、地歴社会の点数は合否に関係すらしていなかった可能性もあるじゃないか。


 これは実力だ。


 それなのに。


 あれから何十年と経った今、急に彼から連絡が来た。


 気に入りの山があるんだが、一緒に登らないか、と。


 気色悪く思ったのに遥々出かけたのは、彼への言いようのない恐怖心があったからか。


 我々は山を少し登ったところで待ち合わせた。

 名所を聞き出してくる、1番良い場所で待ち合わせよう、と彼が言うので、従ったのだ。


 我々は一緒に山に登り、当たり障りのない思い出話をし、弁当を食べた。

 その時、彼がぽろりと漏らした。

 彼が今度の教員採点で、私たちが受験した年の答案用紙を参照するのだと。


 居ても立っても居られなかった。


 当時の試験官にも分からなかったのだから、彼に分かるはずがない。


 そう思っても。


 何かが許さなかった。


 私は良い景色が見えるのだ、と言って彼を人気のない崖近くに誘い出した。


 そして。


 渾身の力で思い切り突き飛ばした。


 姿も見ずに私は帰宅し、何も考えずに眠った。


 誰にも分かられている筈がないと思った。

 しかし、妻が居たとは完全に想定外であった。


 彼の妻から連絡が来た時、私はもはや逃げられないと思った。


 彼が「大西と登山してくる」と妻に伝えていたのだとしたら。


 私の起こした事はすでに知られているということになる。


 逃げ出すよりは直接会って、しらを切り通した方が安全だと思った。


 確かに一緒に登山には出かけた、しかし途中ではぐれてしまった。私も連絡するべきかどうか迷っていた。まさか死んでいたとは知らなかった。

 ...という、渾身の言い訳を考えて、彼の家に乗り込んだ。


 まさか、私に犯人を探してくれと言われるとは予想外だったが。


 兎にも角にも、彼女は、彼と親密な人間に私を誘導してくれ、そして事故として処理してくれるという、何とも幸運な結末に落ち着いた。


 これで何も心配することはない。

 心配することは。


 ...しかし。


「僕の死で」

「とびっきりのミステリーを作って欲しい」


 浮かんでくる遠藤君の横顔。


 まさか。

 まさか彼は、最初から知っていて...?


 私に殺されると、思っていて...?


 浮かんだ恐ろしい想像を払拭するように、首を振る。


 そんな筈はない。


 現にほら、全て、うまくいったじゃないか。


 しかし。


「ライバルだと思っていたのに」

 高校生のあの時から決して消えない腹の痛み。

 この正体は罪悪感、そして途方もない敗北感か。


 死者となってしまった故、二度と克服することができない彼へのそれを忘れるように、私は家路を急いだ。

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