白き歳神の胞子
とらんきる丼
白き歳神の胞子
火星の赤土に半球状のドームが突き刺さっている。第4テラフォーミング基地「アマテラス」は、マイナス60度の外気と致死的な放射線から、三千人の入植者たちを守る唯一の殻だった。
基地の暦は、地球の標準時に合わせて西暦2084年の大晦日を迎えていた。
「湿度45%、気温22度。重力制御正常。……完璧な初詣日和だな」
環境維持局の技官、カイ・サナダは、タブレットの数値を読み上げながら苦笑した。
彼の目の前には、ポリカーボネートとホログラムで作られた「鎮守の森」が広がっている。鳥居はリサイクル・プラスチック製、参道の砂利は火星の岩石を砕いて洗浄し、白く塗装したものだ。お囃子の音色は指向性スピーカーから完璧な音響で流されている。
ここは、完全密閉型の人工神社。
故郷を捨て、あるいは生まれながらにして知らぬ入植者たちが、年に一度、遺伝子に刻まれた「ハレ」の感覚を呼び覚ますための装置だった。
「カイ、おばあ様が呼んでるわよ。また『あれ』の調整だって」
同僚のミナが呆れたように言った。「あれ」が何を指すか、カイにはすぐにわかった。
彼はため息をつき、管理区画の最奥、居住区の特別室へと向かった。
そこには、彼の祖母であり、この基地の最長老、そして元植物学者のシズが住んでいる。
彼女の部屋だけは、空気が違った。無機質なオゾン臭ではなく、どこか甘ったるく、重い匂いが澱んでいた。
「カイ、よく来たねえ。さあ、見てごらん」
シズはしわがれた手で、部屋の中央にある祭壇を指さした。
そこには、
3Dプリンターで出力されたシリコン製の食品サンプルではない。
本物の、餅米から作られた、有機質の鏡餅だ。
「おばあちゃん、これは違反だ。未検疫の有機物を培養するのは……」
「培養じゃないよ、お供えだ。地球から密輸した種籾を、私のプライベート・ガーデンで育てたんだ。50年ぶりの、本物の正月だよ」
シズの目は狂信的な輝きを帯びていた。
カイは鏡餅に目を凝らした。大小二段に重なった白い餅の肌は、しっとりとした艶を放っている。だが、その頂点、
青白い――いや、純白の毛羽立ち。
カビだ。
「カビが生えてる。廃棄処分しなきゃ」
「馬鹿をお言い!」
シズが絶叫した。
「鏡餅のカビはね、削って食べればいいんだよ。これは『神様の宿り』なんだ。豊穣の証なんだよ。この乾ききった死の星で、命が溢れ出そうとしているのが分からないのかい?」
カイは寒気を覚えた。
その「白」は、彼が教科書で知る地球のカビとは違っていた。
餅の表面だけでなく、内部から脈打つように溢れ出している。まるで餅そのものが呼吸をしているかのように、わずかに収縮を繰り返していた。
「……後で除染班を呼ぶからね」
カイはそう言い捨てて部屋を出た。背後でシズが「歳神様を追い出す気か」と喚いていたが、無視した。
それが、すべての間違いの始まりだった。
***
異変は、デジタル音声の除夜の鐘が鳴り響く2時間前に起きた。
環境維持システムの警報が、居住区画の一部で「湿度異常」を検知した。配管の水漏れかと思い現場へ向かったカイは、廊下の角を曲がった瞬間、足を止めた。
廊下が、白かった。
壁も、床も、天井も。
雪ではない。発泡ウレタンのようにも見えるが、それは有機的な粘り気を帯びていた。
マシュマロのような、あるいはつきたての餅のような物質が、廊下を埋め尽くして波打っている。
「なんだ、これは……」
カイが恐る恐る近づくと、その白い壁の一部が「ぷくり」と膨れ上がった。
破裂音とともに、白い粉塵――胞子が舞った。
カイが吸い込んだ瞬間、鼻腔の奥に強烈な「餅の匂い」が突き抜けた。焼いた餅の香ばしさではない。蒸したばかりの、濃厚で、むせ返るような澱粉と糖の匂い。そして、その奥にある腐敗臭。
「カイ! カイ、応答して!」
通信機からミナの悲鳴が聞こえた。
「どうした!?」
「シズさんの部屋が……飲み込まれたわ! 部屋のドアの隙間から、白いのが溢れてきて……隣のブロックまで!」
「おばあちゃん!」
カイは踵を返してシズの部屋へ走った。しかし、そこはもう「家」の形をしていなかった。
シズの部屋があった区画は、巨大な白いドーム――いや、巨大な鏡餅のような形状に変質していた。
金属の隔壁が、内側からの圧力でひしゃげている。
その隙間から、餅のような
「家」を食っていた。
壁の断熱材を、配線を、そして家具を分解し、自らの質量へと変換している。
「あ……あぁ……」
白い塊の中から、声がした。
カイは防護マスクを装着し、発炎筒を焚いて近づいた。
白い粘菌の壁に、人の顔が浮かび上がっていた。
シズだった。
彼女の下半身は完全に「餅」と同化し、上半身だけが、まるで鏡餅の上の飾りのように突き出ている。
「おばあちゃん!」
「見てごらん、カイ……」
シズの表情に苦痛はなかった。恍惚としていた。
「家が、神様になったよ。カビはね、命のサイクルそのものなんだ。死んだ家を食べて、新しい真っ白な世界を作ってくれる……」
「しっかりしろ! 今、焼き切って助ける!」
カイは携帯型レーザーカッターを構えた。
「やめなさい。……ああ、あったかい。懐かしいねえ。みんなでコタツに入って、餅を焼いて……」
シズの顔が、急速に白く濁っていく。
彼女の皮膚が、餅肌のように滑らかになり、目鼻立ちが溶けるように平らになっていく。
彼女は最後に、にっこりと笑った。
「あけまして、おめでとう」
次の瞬間、彼女の頭部は、音もなく白い菌糸の海へと沈み込んだ。
直後、彼女がいた場所から、爆発的に菌糸が膨張した。
「うわあああ!」
カイは転がるように逃げ出した。
背後で、居住ブロック全体がミシミシと音を立てて崩壊し、白い粘液に置換されていく。
バイオセンサーが警告音を鳴らし続けている。
『警告。未知の真菌類を検知。増殖速度、測定不能。有機物、無機物を問わず炭素鎖を分解中。』
ただのカビではない。
火星の土壌に含まれる過塩素酸塩と、シズが持ち込んだ地球の古代米のバクテリア、そして高濃度の放射線が、最悪の進化を引き起こしたのだ。
それは「食べる」のではない。「正月にする」のだ。
あらゆるものを、白く、丸く、めでたい形へと変えていく。
***
基地の中央広場、「人工神社」には、初詣を待つ二千人の住民が集まっていた。
彼らはまだ知らない。居住区画で起きている悪夢を。
「新年まで、あと5分!」
DJのような神主のアナウンスに、歓声が上がる。
カイは広場へのエアロックをこじ開けて飛び込んだ。
「逃げろ! ここを閉鎖しろ!」
だが、彼の声は祝祭のノイズにかき消された。
そして、その時が来た。
ドームの天井、人工の星空を映し出していたスクリーンの一部が、白く変色した。
最初は雪の演出かと思われた。
だが、その「雪」は、ぼたぼたと重く落下してきた。
粘着質の白い塊が、参拝客の頭上に落ちる。
「きゃっ、何これ? ネバネバする」
「お餅? 餅まきか?」
一人がそれを口に運ぼうとした瞬間、塊が顔に張り付き、気道を塞いだ。
男は喉をかきむしりながら倒れた。その体の上で、白い塊は見る見るうちに増殖し、男の体を繭のように包み込んでいく。
「感染するぞ! 触るな!」
カイの叫びも虚しく、天井の亀裂は一気に広がった。
ドームの構造材を食い破り、居住区画全体を飲み込んだ「巨大な鏡餅」が、その姿を現したのだ。
それは、高さ50メートルにも及ぶ、圧倒的な質量の「カビの塔」だった。
かつてシズの部屋だった場所を頂点とし、下の階層へ、さらに下の階層へと、雪崩のように白い菌糸が垂れ下がってくる。
飲み込まれた家具、家電、そして逃げ遅れた人々が、白い半透明の膜の中で消化されながら、不気味に透けて見えている。
「あ……あぁ……」
広場はパニックになるどころか、静まり返った。
あまりにも異常で、あまりにも「神々しい」光景だったからだ。
真っ赤な火星の世界で、これほどまでに純粋な「白」を見たことがなかった人々は、恐怖よりも先に畏敬を抱いてしまった。
「神様だ……」
誰かが呟いた。
巨大な白い塔は、ゆっくりと脈動している。
その表面から、無数の胞子が粉雪のように舞い降りる。
胞子を吸い込んだ人々は、咳き込むこともなく、ふらふらとその場に座り込んだ。
彼らの脳内では、神経毒による強烈な幻覚が再生されているはずだ。
懐かしい故郷の風景。家族の団欒。終わらない正月。
「だめだ……」
カイは膝をついた。
エアロックはすでに白い粘液で封鎖されている。
中央広場の鳥居が、白い波に飲み込まれていく。
ホログラムの神殿が消え、代わりに、圧倒的な実存感を持つ「生きた鏡餅」が鎮座する。
それは、火星基地という無機質な空間を、有機的な死と再生の儀式場へと変えてしまった。
カイの視界の端で、同僚のミナが座り込んでいた。
彼女の肩には、すでに白い綿毛のようなものが積もっている。
「ねえ、カイ。見て。綺麗よ」
ミナの瞳孔は開いていた。
「初日の出が……見えるわ」
基地の照明が落ちた。
だが、暗闇ではない。
カビそのものが、うっすらと燐光を放ち始めたのだ。
青白い光が、ドーム内を幻想的に照らし出す。
カイは悟った。
これはテラフォーミングの失敗ではない。
ある意味で、成功なのだ。
地球の生命力は、火星という過酷な環境に適応するために、人間という脆弱な器を捨て、より強靭で、より単純な「カビ」という形態を選んだのだ。
僕たちは、鏡餅の飾りになるんだ。
カイの足元から、温かく、柔らかい白が這い上がってくる。
それは母親の胎内のように心地よく、抗いがたい眠気を誘った。
基地のメインモニターには、AIが虚しく新年のメッセージを表示し続けている。
『HAPPY NEW YEAR 2085』
火星の赤い大地に、白く輝く巨大なドーム。
それは宇宙に供えられた、たった一つの鏡餅のようだった。
中身がすべて、白い菌糸と幸福な悪夢に置き換わったまま、静かに、静かに、新しい年が始まった。
(了)
白き歳神の胞子 とらんきる丼 @Tranquil_Dawn
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