最終章 真昼の共犯者
1
翌朝の昇降口は、ありふれた日常の喧騒に満ちていた。
昨日までの雨は完全に上がり、夏の日差しがアスファルトを真っ白に焼き尽くしている。
沢村未咲は、下駄箱の前で立ち止まり、自分の手首をじっと見つめていた。
白い肌の上に、薄く、しかし確かな赤みが残っていた。
昨夜、プールの中で准に掴まれた痕だ。
それは痛々しい傷というよりは、花びらが落ちた跡のような、淡い烙印だった。未咲は指先でその痕をなぞり、微かな痛みと共に昨夜の熱を反芻した。
一限目の現代文。
未咲の席からは、斜め前方に准の背中が見える。
彼は頬杖をつき、教科書も開かずに黒板の方をぼんやりと眺めていた。
整ったうなじ、シャツの襟から覗く首筋。昨夜、水滴が伝い落ちていったその場所を、今は真昼の日差しが照らしている。
その時だった。准が、ふと、振り返った。
教師が黒板に向いて板書をしている隙をついた、一瞬の動作。
彼の視線が、真っ直ぐに未咲を射抜いた。
感情を切り落としたような静寂と、灼熱の熱量を同時に孕んだ瞳。
彼は口元だけで、何かを呟いたように見えた。
『 い た い か 』
未咲の心臓が跳ね上がった。
彼は知っているのだ。そして、未咲が今、その痛みを甘美なものとして受け入れていることさえも。
2
チャイムが鳴り、昼休みになった。
渡り廊下の角を曲がろうとした時、未咲は不意に腕を引かれ、階段下の死角へと引きずり込まれた。
「逃げるなよ」
准は未咲の両脇に手をつき、逃げ場を塞いだ。
ここからは、廊下を行き交う生徒たちの足音や笑い声がすぐ近くに聞こえる。
「逃げてない……」
未咲は准の瞳を見つめ返した。以前のような怯えはもうない。
准の指が、未咲の左手首を掴んだ。
昨夜、彼が強く握ったその場所を、今度は優しく、確かめるように親指でなぞる。
「消えないな」
「……城村くんのせいだよ」
「ああ、俺のせいだ」
准は肯定した。そこには罪悪感など微塵もなく、あるのは純粋な独占欲だけだった。
彼は未咲の手首を持ち上げると、その赤い痕に、誓いの口づけのように唇を落とした。
濡れた唇の感触が、肌に焼きつく。
「これからも、増やしてやる」
准が顔を上げ、未咲を見つめる。
その瞳の奥には、出口のない迷路のような暗い光が宿っていた。
未咲はその光から目を逸らさない。恐怖も、理性の警告も、すべてが彼への渇望に塗り替えられていく。
「放課後。……また、あの準備室で」
准は短く告げると、身を翻し、光の溢れる廊下へと戻っていった。
残された未咲は、壁に背を預けたまま、彼が触れた手首を胸元で抱きしめた。
廊下からは、「次、体育だよな」「早く行こうぜ」という明るい声が聞こえてくる。
その健全な日常のすぐ裏側で、未咲は自分の中に芽生えた、決して消えることのない微熱を感じていた。
もう、戻れない。けれど、戻りたいとも思わなかった。
未咲は深く息を吸い込むと、まだ微かに残る彼の匂いを肺いっぱいに満たし、ゆっくりと歩き出した。
熱帯のような湿気を含んだ、二人の秘密の夏は、まだ始まったばかりだった。
(了)
戻れぬ夏の共犯者 森崇寿乃 @mon-zoo
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