近すぎる距離

ここから私が一歩でも外に出てしまえば、一ノ瀬春樹の芸能人生が終わる。

そう思うと、私の体は全く動かなかった。

「真白ちゃん、ケーキ好きでしょ?」

用意してあったであろうケーキの箱が冷蔵庫から出てきた。

「何で知ってるの?」

ライブに行ったことはあるが、サイン会などのリアル特典会には行ったことがない。

つまり、私とハルは一度も交流をしたことがないはずなのだ。


ケーキの箱を開けて、中身を見せる。

「だって呟いてたじゃん」

その意味を理解するのにそう時間はかからなかった。

「……私のSNSアカウント知ってるの?」

当たり前だと言わんばかりの表情に少し、恐怖心を抱く。

しかしそれ以上に推しである故、かっこよさが勝ってしまう。


かっこいいは罪だ。

多分、この人が基本的に何をやったとしてもそれを応援してしまうのだろう。

ダメなことであってもそのうち許してしまいそうな自分がいるのが怖い。

「そもそもハルは何でこんなことを?」」

接点がない。

アイドルとファンという遠い存在が、なぜ同じ部屋で同じ空気を吸っているのだろう。

地元も違うし、どこで私を知ったのか見当もつかない。


「好きだから。好きな人と一緒にいられるなんて幸せでしょ?」

アイドルであるハルしか知らなかったが、この人とは感覚が若干ずれているように感じる。

私の常識はハルには通じない。

そんな感じがした。

「どこで私を知ったの?」

丁寧に、あまり刺激をしないように、慎重に言葉を選ぶ。


「ライブに来てくれたでしょ?去年のツアー最終日。数ある星の中で真白ちゃんが一番輝いてて。その瞬間、歌の歌詞なんて忘れちゃうくらい、ダンスの振りなんて忘れちゃうくらい、真白ちゃんから目が離せなかった」

例えば、絶世の美女がファンとしてライブを見に来ていたらあり得る話だと思う。

ただ、私は田舎で生まれたそこら辺にいるような平凡な女。

その私を見てイケメンが恋に落ちるなんてあり得るのだろうか。


確かに去年の全国ツアーの最終日、良席を当てた私はハルから特大ファンサをもらった。

その時に、ステージを完璧にこなすハルにしては珍しく歌詞も振りも飛んでいたのを今でも覚えている。

完璧人間でもミスをすることくらいあるし、むしろライブでしか味わえないものなので友達と可愛いを連発していた。

あの瞬間にハルは私に恋をしたと言う。

こんな話、到底信じられるわけがない。


ケーキを食べながら淡々と話すハルを見つめていた。

お手入れが行き届いている肌、艶々の髪、切り揃えられた爪。

その全てが綺麗すぎて目を疑う。

こんなに近くで見つめても綺麗な姿に相当な努力が隠されているのだろう。

外見も中身も綺麗な人でなければファンはつかない。

それに加え、ダンスのスキルや歌唱力など様々なスキルが求められる。

改めてハルたちがいる世界は狭き門なことを感じさせられた。


「真白ちゃん、ホイップついてるよ」

私の口に手を伸ばし、そっと拭ってくれた。

その手はそのままハルの口に向かっていった。

「ストップストップ!何しようとしてるの!?」

そのまま口に持っていってしまえば、私とほぼ間接キスする形になってしまう。

アイドルであるハルにそんなことしてほしくないし、されたら私は気絶してしまう。

そんな特大ファンサは心臓に悪いのでやめてほしい。


私の様子に楽しんでいるのか悪い顔をしている。

親指についているホイップを、ハルの舌が捉えた。

わざとらしく私を見つめながらぺろっとするのをやめていただきたい。

「真っ赤」

「んー!」

この空間にいたら殺される。

確実に溶けて、水になる。

恥ずかしすぎて顔を隠しながら悶えていると、ハルが動いた感じがしたので顔を上げた。


「可愛い」

ストレートで簡潔なその言葉は私を殺すのに十分な道具となる。

ナイフや銃、爆弾よりも効果がある推しの言葉で殺された。

「離れてください!」

これ以上近くにいたらダメだ。

もう戻れなくなってしまう。

この幸せが夢であればよかったのに、現実だ。

これ以上推しを摂取し続けたら確実に死んでしまう。

ケーキを食べた後、ハルにお風呂に入るように言われた。

一人でシャワーを浴びて、この状況を一度整理した。


私はなぜか推しであるハルに誘拐された。

身代金の要求があるわけでもなく、危害を加えられるわけでもない。

ただ、そばにいてほしい。

そんな素直な要件に戸惑いが隠せない。

外に出ようとしても、それがハルのアイドル人生を終わらせることに直結していると思うとその一歩は踏み出せない。

しかしこのままここにいたら私の身が持たない。


妹や親戚という体で家を出ればハルのアイドル人生は終わらない。

ただ、そのためにはハルを説得することが絶対条件だ。

「真白ちゃん。服、ここに置いておくから」

脱衣所から聞こえるハルの声に心臓がうるさい。

ハルは誘拐という犯罪を犯している。

それでも嫌いになれないのは完全にハルにハマってしまっているから。

抜け出せない沼に落ちた私はこのままここで暮らしていくのだろうか。


ファンとアイドルという一線を超えてしまえば、もう後には戻れない。

その先に待っているのは天国か地獄か。

湯船に浸かりながら必死に考えた。

私とハル、交差することのない二人の人生が重なってしまった今、私たちにどんな未来が待ち構えているのだろう。

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