大好きだよ

目の前の状況に再び緊張が走る。

推しの顔面が強すぎて、一体何が起こっているのか思考さえできなくなってしまう。

「いらっしゃい。ずっと楽しみにしてたんだ。俺の夢を叶えてくれてありがとう」

ドッキリの続きのようには思えない。

何が起こっているのか全く理解ができていなかった。


「お腹空いてる?それともお風呂?」

私が混乱している横で平然と会話を続けるハル。

「ドッキリだよね?」

「違うって言ったじゃん。人の話はちゃんと聞かないと」

推しの言っていることが絶対であるが、今だけは理解できない。

「そんな顔しないでよ。俺がいるのにそんな顔させるなんてアイドル失敗だね」

ハルが自分を責めている。

私のせいで。

どうしよう。


私の頬に優しく触れて、存在を確かめるかのように抱きしめた。

「良い匂い。大好きだよ。真白ちゃん」

ドッキリにしてはおかしいと、ここでようやく気がついた。

目の前で起こっているこの光景はドッキリなんて可愛い遊びではなく、誘拐だ。

それに気がついた時にはもう全てが遅かった。

何でハルがこんなことをしているのかはわからないが、家に帰らなくてはいけない。

「誘拐?これ、どういう状況?」

いくら推しであっても状況が状況だ。

喜んでいる場合では無い。


私と目を合わせて、優しく笑った。

「誘拐なんて物騒なことしないよ。俺は迎えに行っただけ。これからはずっと一緒にいられるね」

アイドルのハルが大好きだった。

キラキラと輝いたステージで黄色い歓声を浴びて、必死に踊る姿を追いかけてきた。

だが、今ここにいるのはアイドルのハルでは無い。

一ノ瀬春樹という一人の人間が目の前にいる。


「まだちゃんと告白してなかったね。ごめん」

私を抱き上げてソファーに座らせた。

「初めて真白ちゃんと目があった時、胸が苦しくなった。本音だよ。それから真白ちゃんのことが忘れられなくて、会いたくて、たくさん頑張った。時間はかかっちゃったけど俺の恋人になってくれるよね?」

推しの言葉は偉大だ。

推しが白といえば白になるし、黒といえば黒になる。

だからこそこの言葉は私に重くのしかかった。


ハルはグループの中でも様々な場面で活躍している。

歌番組や教育番組、ニュースにドラマと引っ張りだこ。

そんなハルは現場で様々な美女と出会うことだろう。

その中の誰かを選んだわけではなく、一般人であるファンに恋をしたという事実をうまく処理できなかった。

「伝わってない?何度でも言うよ。真白ちゃん、好き」

アイドルとしての言葉では無いことは私でもわかる。


隙を見て、この部屋を出ようと考えた。

誘拐されたと言っても身代金を要求されたり、危害を加えられたりするような感じでは無い。

このまま外に出て友達の家まで避難しよう。

「お風呂がいい」

推しからの好きなんて最上級に嬉しい言葉なのに素直に受け取れない自分に腹が立つ。

アイドルとしてのハルを好きな自信はあるし、推しだと断言できる。

しかし推しはあくまでも手の届かない場所にいるから推しであり、目の前にいたらそれはもう推しでは無い。


るんるんで私の手を引いてお風呂場まで案内すると、ハルは扉を閉めた。

玄関の位置も確認済みなので、数分後にここから出ようと思う。

ハルのアイドル人生を壊すことは絶対にしたく無い。

だから警察にもいかないし、誰にも言わない。

これは夢だったと思うようにする。


ゆっくりと扉を開けると、廊下にはハルの姿がなかった。

足音を立てないようにゆっくりと廊下を歩き、玄関にたどり着いた。

夢のような時間だったことは確かなので、軽くお礼をして部屋を出ようとすると、ドンッと音がして背中に大きな壁を感じた。

「あ……ハル?」

心臓の音がライブの時よりも早い気がする。

「ねぇ、今何しようとしてた?」

ハルの声を心地よく思えない。


私の体を覆うようにして、抱きしめる。

「せっかく頑張ったのに台無しにしないで。真白ちゃんがびっくりするのはわかるけど、落ち着いて。大丈夫だから」

何も大丈夫じゃ無い。

誘拐されているのに、推しだからという理由で喜んでいる自分もいる。

恐怖や不安以外に、優越感や喜びが含まれているのは事実だ。

この複雑な感情をどう表現したら良いのだろう。


一度でも目を合わせてしまえば終わりだと知っている。

知っているのに、見つめてしまう。

推しという存在は本当に罪だとお思う。

「それに、ここら辺週刊文春の記者とかうろついてるんだよね」

もし、この扉をあ開けていたらと思うと背筋が凍る。

人気アイドルグループのリーダー宅から一般人女性が出入りとか言われる危険性があった。

そんなことになればファンからのブーイングや事務所からの契約破棄など考えうる最悪のパターンになってしまうところだった。


「ご、ごめんなさい。そんな、悪いことをする気はなかったの」

一度でも問題を起こしてしまえば積み上げてきた全てが一瞬で崩れる世界。

それを必死に戦ってきた人を一瞬で負けに導くところだった。

「大丈夫。真白ちゃんが良い子なのは俺が一番わかってるから。そういうところも含めて全部好き。大好き」


あぁ、何だろうこの感覚。

誘拐された人の心理では無いものが私にはある。

ハルに見つめられると何を考えたら良いのかわからなくなる。

それくらいに推しの顔面は情報過多すぎて、思考がバグってしまうのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る