第4話 逃げ道の味
椀を持った手が、少し震えていた。
リコはそれをごまかすみたいに、鼻を鳴らしてスープをすくった。
熱い。
でも、熱いのは嫌いじゃない。
むしろ、今はそれが助かる。
(……腹、減ってたんだな)
気づいた瞬間、負けたみたいで腹が立つ。
盗賊は、腹が減ってても平気な顔をしなきゃいけない。
強くなきゃいけない。
弱いと、奪われる側になる。
だから。
「いただきます」とか言う前に、口に入れた。
ポトフ。
キャベツ。
肉。
塩。
舌に乗った瞬間、身体の奥がほどけた。
胸のあたりが、じわっと温かくなる。
(……くそ)
こんなの。
こんなのが、効くなんて。
---
ノーマンが何か喋っている。
パンネロが笑っている。
アキラが淡々と椀をすすっている。
リコは、会話に入らない。
入ったら、喉の奥の変なものが溢れそうだった。
(弱音、吐きそう)
吐いたら終わりだ。
終わるというか――
ここに座ってる理由が、なくなる。
「……うまい」
危うく言いそうになって、噛み殺した。
代わりに、もう一口。
パンネロが言う。
「熱いから、気をつけてね」
リコは返事をしない。
でも、舌を火傷しないように息を吹いた。
(……何やってんだよアタイ)
盗賊が。
気をつけて、って言われて。
素直に気をつけてる。
---
アキラは、こっちを見ない。
見ないのに、分かってる気がする。
視線じゃなくて、空気で察しているみたいな顔だ。
昔の自分を思い出してるのか。
そう思って、また腹が立つ。
(何だよ)
(おっさんのくせに)
(そんな顔できんのかよ)
でも、アキラは何も言わない。
慰めもしない。
励ましもしない。
「分かる」とも言わない。
ただ、鍋の火が強すぎないかを見て、
パンネロの椀が空いたら、黙ってよそう。
その“何もしなさ”が、逆に怖い。
逃げ道を塞がれない。
だから、自分で逃げ道を作らないといけない。
---
食べ終わった頃。
リコは椀を置いて、椅子から立った。
「……じゃあな」
声が、やけに固い。
自分の声じゃないみたいだ。
ノーマンが即座に言う。
「おう。気をつけて帰れよ」
パンネロが手を振る。
「また来てねー!」
リコの背中が、びくっとした。
胸が、嫌な音を立てる。
アキラが、淡々と言う。
「……また来いよ」
それだけ。
押しつけもない。
条件もない。
なのに、刺さる。
「くるもんか!」
反射で吐き捨てて、リコは玄関へ向かった。
靴を雑に履いて、扉を開けて、外へ出る。
逃げるみたいに、夜へ滑り込む。
背中の方から笑い声が聞こえた気がしたが、振り返らない。
---
帰り道。
街の灯りは眩しい。
腹の中は温かい。
それが余計に腹立つ。
「……何なんだよ、あいつら」
誰に向けるでもなく、ぶつくさ言う。
「勝手に名乗ってるだの」
「点数がどうの」
「鍋がどうの」
勇者ごっこ。
そんなの、アタイが一番馬鹿にしたかったはずなのに。
(……うまかったな)
スープの味を思い出して、舌打ちする。
「ちげーし」
「腹減ってただけだし」
「別に、うまいとかじゃねーし」
言い訳を増やすほど、負けが増える。
---
スラムの端。
崩れかけた倉庫の裏。
誰も近づかない、湿った隙間。
そこが、リコの寝床だった。
盗賊の拠点。
と言っても、一人だ。
徒党は組まない。
組めなかった。
組めば、奪われる。
ケモノのくせに、人間に憧れてるって笑われる。
同族からも、目をそらされる。
毛布を丸めただけの巣。
乾いたパンの欠片。
錆びた短剣。
小さなガラス玉。
全部、軽い。
全部、盗んだか、拾ったか、奪ったか、どうでもいいもの。
なのに。
さっきの鍋の湯気の方が、ずっと重かった。
リコは毛布に潜り込んで、耳を伏せた。
(……帰ってきた)
ここが“帰る場所”だったはずなのに、今日は違う。
戻ってきたのに、戻れてない感じがする。
---
目を閉じると、森の匂いが蘇る。
湿った土。
獣の血。
夜の冷たさ。
緑の辺境。
ケモノ族の集落。
あの場所は、強い。
強いっていうか――
弱いと生きられない。
族長のガルの声が、頭の奥で響く。
『そんな棒切れを振り回す暇があったら、気配を消す訓練をしろ』
『我々には我々の戦い方がある』
『人間への憧れと、己の種族への劣等感が混じった、濁った目だ』
リコは歯を食いしばる。
(濁ってて悪いかよ)
でも、言い返せない。
あいつは正しい。
森では。
森では、爪と牙が正しい。
生体魔力(ライフ・マナ)が正しい。
暗闇で、生き残ることが正しい。
それでも。
リコは思い出す。
暴君熊(タイラント・ベア)の巨体。
動けなかった大人たち。
震える自分。
そこに現れた、人間の剣士。
泥だらけで、疲れた顔で。
でも、一撃で終わらせた。
あの閃光が、目に焼き付いた。
(アタイも、あれになりたい)
あれは、呪いだった。
救いでもあった。
---
翌朝、境界線に立った時の空気も覚えている。
森の湿気が、乾いた街道の匂いに変わる瞬間。
戻れないって分かってるのに、尻尾を高く上げた瞬間。
『死ぬなよ、跳ねっ返り』
ガルの最後の言葉。
優しさじゃない。
でも、切れなかった縄みたいな言葉。
リコは毛布の中で、拳を握った。
(死なねえよ)
(まだ、なってねえだけだ)
勇者に。
何者かに。
でも今夜は、少しだけ分からなくなった。
協会に認められることが、ゴールだったのか。
バッジが欲しかったのか。
ランキングに載りたかったのか。
違う。
本当は。
「……ありがとう」って言われたかった。
婆さんに頭を下げられて、照れくさそうに笑う顔。
あれが、絵本の勇者よりずっと刺さった。
(……くそ)
リコは目を開けて、暗い天井を睨んだ。
「また来いよ」
アキラの声が、まだ耳に残っている。
「くるもんか」
小さく呟いて、リコは尻尾で毛布を引き寄せた。
でも。
逃げ道の味が、まだ舌に残っていた。
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