第3話 名もなき一軒家の名

「ごはん、余ってるよ」


その言葉が、リコには罠に聞こえた。

罠っていうか――

怖い。

もっと正確に言うと、優しさが怖い。


優しくされると、逃げ道がなくなる。

殴られた方が、まだ分かる。


(偵察だ)

(食うのも偵察だ)

(……意味わかんねえ)


キャベツを抱え直して、リコは玄関に立った。

古い木の床が、体重を受けて小さく鳴る。


中は、生活の匂いだった。

鍋。

油。

紙。

鉄。

それから――

人のぬくもり。


---


「靴、そこ。泥、落として」


明るい女が言う。

命令じゃない。

当たり前の注意だ。


リコは反射で耳が立った。

協会の職員は、もっと“規定”っぽく言う。

ここは違う。

ただ、床が汚れるから言っている。


(……やりづらい)


居間兼事務所の真ん中に、でかい木のテーブルがあった。

傷だらけで、輪染みだらけで、端っこに「正」の字が刻まれている。

戦績じゃない。

たぶん、借金か、依頼の数か、どっちかだ。


テーブルの上には、炭筆と帳簿。

分解途中の何か。

砥石。

布。

そして、鍋。


鍋は――

でかい。

湯気が、でかい。


「座って」


女が椀を差し出してくる。

リコは一瞬、逃げるべきか考えた。


(逃げる理由がないのが、一番困る)


結局、椀を受け取ってしまう。


---


「それで?」


口の悪い男が、椅子に深く座ったまま言った。

目だけが笑ってる。


「何が」


リコが睨むと、男は肩をすくめる。


「名前」


「……は?」


「お前さ、さっきからずっと“お前ら”って言ってるだろ」

「こっちは、もうお前のこと知ってる」


リコはぎくっとした。

なんで知ってる。

誰が言った。

あの林道で――


「……名乗ってねえ」


「名乗ってたじゃん。義賊のリコ、って」


言われて、思い出して腹が立つ。

あれは口上だ。

口上は、半分嘘でできてる。


「……本名じゃねえ」


「へえ」

男が楽しそうに笑う。

嫌いなタイプだ。


その横で、落ち着いた男が椀をすすっていた。

真顔のまま、淡々と。

視線だけが、こっちを見ている。


「……じゃあ、こっちから名乗るか」


そう言って、彼はあっさり言った。


「アキラ」


その一言で、部屋の空気が少しだけ“個人”になった。

さっきまで、ただの「強い人間」だったのに。


(アキラ)

(……名前、あるんだな)


当たり前のことが、なぜか刺さる。


口の悪い男が、椀を片手に言う。


「俺はノーマン」


でかい。

名前まででかい。

見た目通りだ。

身体つきが、労働の形をしている。

手の甲に、古い擦り傷。

筋肉が“使われてる”筋肉だ。


最後に、女が胸を張った。


「パンネロ!」


自信満々に言うのに、目がふわふわしている。

何も分かってない顔。

でも、鍋だけは完璧に見張っている顔。


---


「で」


リコは、三人の名前を口の中で転がしたあと、ぼそっと言った。


「……なんで、名乗れるんだよ」


アキラが首を傾げる。


「名乗れない理由、あるか?」


「あるだろ」


言いかけて、止まる。

協会。

胸章。

ランキング。

認定。


その全部を口にした瞬間、この家の湯気が冷える気がした。


でも、ノーマンが代わりに言った。


「協会の話なら、俺らは“だめなやつ”だよ」


軽く言う。

軽く言えるほど、何回も言われたやつだ。


ノーマンは、自分の椀を一気に飲み干して、続けた。


「普通になりたかった」

「普通の仕事して、普通に給料もらって、普通に帰って寝る」

「……それが、どうしても下手だった」


笑っているのに、笑っていない。


「ミスる」

「調子に乗る」

「空気読み違える」

「で、首」


パンネロが、何の気なしに言う。


「ノーマン、すぐ怒られるもんね」


「怒られるって言うな」

ノーマンが即座にツッコむ。

その反射が、もう慣れすぎている。


「色んな仕事、転々としたよ」

「荷運び」

「倉庫」

「工事」

「護衛の下っ端」

「……まあ、体動かすのは好きだからさ」


言い終えて、ノーマンはテーブルを指で叩いた。

ぽん、ぽん、と、リズムみたいに。


「で、こいつが“選ばれなかった”って聞いた時さ」

「一番ムカついたの、俺だった」


リコの耳が、ぴくっと動いた。


ノーマンが言う。


「だって、あいつはちゃんとしてた」

「ちゃんとしてたのに、ダメって言われた」

「……じゃあ、俺が今まで首になったのも、全部“正しかった”みたいじゃん」


笑いながら、喉が少しだけ詰まった声だった。


「だから迎えた」

「暖かく迎えたつもりだった」

「俺にできるの、それくらいだったし」


---


アキラは、黙っていた。

黙って、スープを飲む。

飲み方が、落ち着いている。

落ち着きすぎて、逆に怖い。


パンネロが、急に言った。


「アキラ、勇者だもん」


リコは咳き込みそうになった。

本人がどうこうじゃない。

言い方が、あまりに“当たり前”すぎる。


ノーマンが笑う。


「それ、普通は言うと炎上するぞ」


「え?なんで?」

パンネロは本気で分からない顔をする。


「だってアキラ、勇者だよ?」


リコの胸が、きゅっと縮んだ。

それは、昔の自分の言い方に似ている。

疑いのない言い方。

世界の全部を信じている言い方。


アキラが、ようやく口を開いた。


「……子どものころから、こいつはそう言う」


「だってそうじゃん」

パンネロは椀を持ったまま、口の端にスープを付けて言う。

食べ方が、妙に汚い。

でも、本人は気にしない。


「協会とか、よく分かんないけどさ」

「アキラが勇者なのは、分かるよ」


分かる。

分かる、って何だよ。

測定器も、ランキングも、判子もないのに。


(なんで、そんなことが言える)


リコは、羨ましくなって腹が立った。


---


アキラが言う。


「俺は、三十代半ば」


リコは目を見開く。

勇者の年齢じゃない。

協会の“賞味期限”の外側だ。


「年齢制限、過ぎてた」


淡々と言う。

それが一番、嫌だった。

怒れよ。

叫べよ。

もっと、悔しがれよ。


でも、アキラは続けた。


「腐ってた」

「仕事はしてたけど、心は腐ってた」

「勇者ごっこなんて、口にするのも痛かった」


ノーマンが、横からぽつりと言う。


「でもさ。吹っ切れたんだよ、こいつ」


「きっかけがあった」


アキラは、それ以上は言わなかった。

言わないことで、逆に“本物”になる。

この家はそういう言い方をする。


「誰にも選ばれないなら」

「誰にも許可を取る必要もないって思った」


アキラはスープの湯気越しに、リコを見る。


「勝手に名乗ってる」

「勇者、って」


言った。

冗談みたいに言ったのに、冗談に聞こえない声だった。


---


パンネロが鍋を覗いて、嬉しそうに言う。


「ね、今日のポトフ、うまいよ」


「お前、料理だけは天才だよな」

ノーマンが言う。


「えへへ」

パンネロは笑って、すぐ食べ始める。

口の端が、また汚れる。


「……親に教わった」

アキラが短く言った。


リコは、その“親”という単語に反応した。

パンネロは、首を傾げている。

でも、その傾げ方の奥に、長い時間がある気がした。


ノーマンが、何気なく言う。


「パンネロん家、いつも差し入れくれるんだよ」

「ありがたい」


アキラが頷く。


「あの人たち、俺に感謝してるらしい」


「なんで」


リコが聞くと、ノーマンが即答した。


「パンネロを外に連れ出したから」


パンネロは、スープをすすりながら言う。


「前はね、ずっとお人形と遊んでた」

「家の中で」

「ぜんぜん平気だったよ」


平気。

その言葉が、逆に怖い。


「でも今はね」

パンネロは椀を両手で持ち上げた。

子どもみたいな仕草で。


「ここ、楽しい」


それだけ。

それだけなのに、この家の空気が少し温かくなる。


---


リコは、自分の椀を見下ろした。

ポトフ。

キャベツ。

肉。

湯気。


(……こんなの)

(協会の食堂にだってある)


でも、協会の食堂は、いつも数字の匂いがする。

ここは、名前の匂いがする。


アキラ。

ノーマン。

パンネロ。


名前がある。

だから、失敗もある。

だから、居場所もある。


リコは、ぽつりと言った。


「……アタイ、ここに居ていいのかよ」


ノーマンが即答する。


「いるだろ」


パンネロが、にこっと笑う。


「リコちゃん、キャベツ持ってきてくれたし」


アキラは、椀を置いて言った。


「ここは、協会じゃない」

「点数もつかない」

「だから――」


少し間。

その間が、怖い。


「ゆっくりでいい」


リコは、返事ができなかった。

喉の奥が、変に熱い。


逃げたいのに。

逃げたくない。


(……くそ)


偵察のはずだった。

なのに、名前を覚えてしまった。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る