第3話 虚舟の女

「娘さん、気が付いたかい?」

「…………」

 十五、六歳くらいに見える美少女は焦点のさだまらない眼で隼之丞を見つめた。まげがくずれて長い髪の毛を洗い髪のように垂らしている。

「おうちの方を呼んであげよう。名前と在所はなんというのだい?」

「………………」

「まだ正気じゃないのかな?」

 困りはてた隼之丞が矢吉を見た。矢吉もお手上げといった風情だ。

「あのぉ……」

「おお、なんだい。私は結城隼之丞という。大川(隅田川)の流れ舟で気を失っていたそなたを見付けた。熱があったのでこの釣り宿で保護したのだよ」

「そうだったのですか……」

「そなたはどこのどなたかな?」

「わたし……」

 娘はきょとんとして隼之丞を不思議な様子で見つめる。美しく、どこか神秘的な娘に見つめられて、隼之丞の心ノ臓の動悸がはやくなった。

「わたしの名前ですか?」

「うむ」

 娘は眉根をよせて思い出そうと苦慮くりょしているようだった。やがて、こまった顔つきで隼之丞を見つめ、

「あの……分からないのです……自分の名前が」

「えっ!?」

 隼之丞が驚いた。娘は困ったような、捨てられた子犬のように哀しい顔をして隼之丞を見上げた。若侍は思わず抱きとめてあげたいような心持ちにとなった。しかし理性が押しとどめる。

「名前が分からないとは……では、親兄弟、知っている者の名前は思い出せないかい」

 娘は少女のように首をふった。

「どこから来たかは覚えてないかい?」

 これも首をふる。やがて悲しい顔をして首をたれた。

 隼之丞は以前、蘭学者から記憶を失った者の話を聞いたことがあった。この娘も記憶をなくしたのかもしれない。

「そなたは朝早く、小舟に乗って横たわっていたのを、私が見つけたのだが、それ以前の記憶はないのかい?」

「ええ……隼之丞さまに会う前のことも……」

 娘は涙ぐんでいた。記憶がないということは、不安で怖いことなのだろう。

 隼之丞も困り果てたがが、放っておくわけにはいかない。

「そうだ、名前が無いと不便であることから、仮初かりそめの名前をつけようではないか」

「かりそめの名前……」

「そうだ。なにか、そなたの好きな言葉でも思いつかないかい?」

「さあ……急に言われましても……隼之丞さま、名付けてくださいませんか」

「私がか?」

 娘がうなづく。

「そうだな……朝靄のでた大川で出会ったから、朝霧あさぎりというのはどうだ?」

「朝霧……いい響きに存じます。わたしのことは朝霧、と呼んでください」

 言霊ことだまの力であろうか、それとも隼之丞の真心が通じたのか、朝霧と名付けられた娘は安心したような表情となった。

「うむ。額に手を当てていいかい?」

「はい……」

 隼之丞が額に手を触れるが、まだ平熱より熱いようだ。

「道休先生が熱さましを飲ませたが、まだ熱があるようだ。まだ養生なさい」

「はい……」

「しかし、そなたはまるで虚舟うつろぶねに乗って、他界から参った者のようだのう」

「虚舟?」

 朝霧と名付けられた娘はきょとんとして、隼之丞を見上げた。

「ああ、空穂船うつぼぶねともいう。日本の各地にある言い伝えで、尾張の熱田沖や、加賀国見屋のこし、常陸国はらやどりの浜などで、沖に風変りな舟のような物がやってきた話がある。船には言葉の通じない美人などが乗っていることがあった。虚舟に乗ってきた者は、他界から来た神の使いともいわれている」

「わたしは人間では無いのでしょうか?」

 朝霧と名付けられた少女は不思議そうに隼之丞を見上げた。

「いや、そなた……朝霧はどう見ても人間だよ。それもどこかの武家の娘だと思える。私の方でも行方不明となった武家の娘がいないか、調べてみるつもりだ。しばし待つように……今はとにかくゆっくり休むように。まずはそれからだよ」

「はい……隼之丞さま」

 隼之丞の言葉に安心したのか、朝霧ははじめて笑顔を見せた。

 若侍と中間は部屋を出た。

 兄の主税は江戸城に出仕していないが、冷や飯食いの身分の悲しさだ。屋敷には兄の嫁と老用人がいて、ともかく一度帰ってふたりに顔を見せにいかなくてはいけなかった。



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きまぐれ隼之丞流雲抄 七川久(ななかわひさし) @532039

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