拝啓、うつくしいあなたへ

糸(水守糸子)

拝啓、うつくしいあなたへ

 ――どうか、今年も貴女が夏を越えられますように。



美雨みうさーん、晩ごはんは何がいい?」


 朝、ビニール傘をつかんで扉をひらきながら、ほたるは尋ねた。

 蛍の七歳上の同居人は、眠たげにあくびをしながら、「豆乳うどん」と答える。夜通し預かった着物を繕い直していた美雨は、色素が薄いやわらかそうな髪をゴムで雑にくくっている。作業を終えたので、ようやく寝るのだろう。

 どんなに忙しいときでも、高校に登校する蛍を、美雨は必ず送り出してくれる。

 この四年間、欠かさずずっと繰り返されてきた日常だ。


「上に野菜のかきあげをのせたやつ?」

「そう、野菜のかきあげがひたひたに豆乳に浸ったやつ」

「わかったー。じゃあ、いってきます」


 蛍が声をかけると、美雨は一瞬まぶしげに目を細めたあと、わずかにほほ笑んだ。美雨のわらいかたは、雨に濡れてうつむく花に似ている。


「うん、いってらっしゃい。蛍」



 今年の梅雨入りは、いつもより早かった。

 蛍たちが住む北鎌倉は、名刹が点在する緑深い土地だが、道が狭く、坂道も多くて、暮らすには少々不向きだ。

 淡い水色の紫陽花が、線路脇に群れ咲いている。

 雨はもう何日降り続いているのかわからない。梅雨が明けたら、庭の紫陽花の剪定をしなくちゃ、などと考えながら、高校までの慣れた道を歩く。

 蛍はこの春に高校二年生になった。同居人の美雨は二十四歳である。

 美雨は北鎌倉の洋館で、祖母の皐月さつきから引き継いだ着物の修復の仕事をして、生計を立てている。「紫陽花つくろい館」と呼ばれる店には、破れたり汚れたりしたさまざまな着物が集まってくる。美雨のうつくしい手は、どんな着物も魔法のように元通りにする。


「えっ、水輪みのわってあの洋館に住んでるの?」


 探求学習の授業で同じ班になった田無たなしに訊かれて、「そうだよ」と蛍はうなずく。

 住んでいる土地のことを調べましょう、というのがこの授業で、集まった班で具体的なテーマ決めをしていた。寺院や歴史はほかの班もテーマに選びそうなので、古い建築にしようかと話していた。鎌倉には古民家もたくさんある。その中で、坂道のうえに立つ紫陽花繕い館のことが話題になった。


「あそこって何の店なの? 着物屋さん?」


 同じグループの女子が話にのって尋ねてくる。

 蛍は首を横に振った。


「ううん、着物は売ってない。預けられた着物を直すんだ。えーと、虫食いとか、カビちゃったのとか、破れたりほつれたりしたのを」

「へえー」


 そもそも、現代では破れた服を専門業者に直しに出すのはめずらしいので、皆ふしぎそうに聞いている。

 美雨に預けられるのは、多くがアンティーク着物と呼ばれる古裂こぎれだが、ときどき、洋服やドレスが持ち込まれることもある。美雨は細く白い指先で、針と糸を繰り、預けられた着物や服を繕う。一年前に死んだ祖母の皐月から受け継いだ技術なのだという。


「わたし、一度おばあちゃんと行ったことあるー。店主のおねえさん、きれいなひとだった。あれ、水輪くんのおねえさん?」

「ねえさんというか……」


 美雨のことを、何も知らない同級生に説明するのはいつもむずかしい。

 でも、ごまかしてもしかたない。美雨はきっとこの先、秋の体育祭にも三者面談にも、蛍の卒業式にだって参加する気だろう。死んでしまったあおいの代わりに。

 蛍は息をついた。


「美雨さんは、おれの死んだ兄貴の婚約者だったひと。おれ、両親がいないから、大人になるまで家に置いてくれてるの。里親制度というやつ」


 クラスメートたちは一瞬、ちいさく息をのんだ。

 視線を泳がせ、へんな沈黙が落ちる。どうしよう、と思っていると、


「……聞いちゃいけなかったやつ?」


 腕をつついて、眉をハの字にした田無が尋ねてきた。

 ううん、と首を振って、蛍は微笑む。


「なら言わない」

 


 蛍には両親がいない。

 十五年前、大雨の夜に車のスリップ事故に巻き込まれて死んだ。

 蛍を育ててくれたのは、死んだ祖父と七つ年が離れた兄の葵だ。

 その兄も、四年前、やっぱり雨の日に増水した川にのみこまれて死んだ。溺れた子どもを助けようとしたらしい。臆病で金づちだったくせに、よくもまあ増水した川に飛びこんだものだ。臆病なひとというのは、ときどきびっくりするような勇敢さを発揮するときがある。でも勇敢になんか、ならなくてよかったのに。

 兄の葬式で、蛍のまえに現れたのが美雨だった。

 蛍にはほかに親族がいなかった。近所のおじさんやおばさんがとりあえず児童相談所に連絡するかと話しあっていたところに喪服すがたの美雨が現れ、「葵くんとわたしは婚約していたので、蛍くんはわたしが一時的に預かります」と言った。

「美雨」のなまえは兄から聞いたことがあったが、本人に会ったのはそれがはじめてだった。

 部屋の隅で膝を抱えて丸まっていた蛍のまえまでやってくると、


「君はそれでいい?」


 と美雨が尋ねた。

 婚約者を突然喪った女のひとは、ふつう、どんな顔をするものなのだろうか。

 美雨はとくべつ泣いても怒ってもいなかったが、頬がすこし上気していた。

 外ではまだ雨が降っているようで、美雨の黒いワンピースは肩や裾が濡れ、やわらかに波打つ色素の薄い髪にも水滴がついていた。微かに息を切らしている。

 彼女は、ここまで走ってきたのだろうか。

 ――見ず知らずの蛍のために? 

 そう思ったら、急にこめかみが鋭く痛んで、涙がこみあげてきた。

 美雨は蛍に折りたたんだハンカチを差し出した。

 受け取る代わりに、蛍は美雨の上着の端をつかんだ。

 美雨は正しく意図をくみ取って、蛍を連れ帰った。

 北鎌倉の坂のうえにたたずむ「紫陽花繕い館」には、当時、美雨の祖母である皐月が住んでいた。


 ――おばあちゃん、わたし、この子を預かりたいの。


 いきなり十三歳の子どもを連れて帰ってきた孫を、ぽかんと見つめたあと、皐月は大口をあけてわらいだした。リズミカルな雨音みたいなわらい声だった。


 ――あんた、普段はおとなしいのに、ときどき突拍子もないことするねえ。その子、どこの子よ。

 ――わたしが大好きなひとの、たからものなの。だから。


 当時、美雨は二十歳だった。

 祖母の皐月について紫陽花繕い館で仕事をはじめていたが、まだ若い。

 彼女の代わりに、児童相談所に相談し、里親制度を申請したのが皐月だ。さまざまな手続きを経て申請は通り、蛍は一時的に保護されていた児童養護施設から、紫陽花繕い館で暮らしはじめた。死んだ兄の婚約者だったという美雨と、その祖母の皐月が暮らすこの洋館で。


 一年前に皐月が病で亡くなったあと、美雨は洋館や仕事を引き継ぐのと一緒に、蛍の里親申請を再度した。蛍が十八歳になるまで、あと一年。美雨は、死んだ兄の「たからもの」らしい蛍を、ポイと捨てたりはしなかった。


 高校の帰り道にあるローカルスーパーで、豆乳と野菜とてんぷら粉を買って帰る。

 近所の神社では、巨大なの輪が現れていた。

 六月三十日に行われる夏越なごしはらえだ。茅の輪をくぐることで、半年ぶんの罪と穢れを祓い、残り半年ぶんの無病息災を祈るのだという。

 人気のない社殿をなんとなく眺めてから、蛍はひとりで茅の輪をくぐった。

 数年前、皐月に連れられて、茅の輪をくぐった記憶がよみがえる。皐月は帰り道に水無月という、ういろうに小豆がのった和菓子を買った。この時期、食が細くなる美雨は、半分残して、「あげる」と蛍の皿に水無月を移した。たわいもなくて、静かな日常の記憶だ。宝石のような。

 美雨は茅の輪をくぐったことがないらしい。

 このようすだと、たぶん、今年もくぐることはないだろう。

 作法どおりに茅の輪をくぐったあと、蛍は入口に立った。

 美雨のぶんも、もう一度くぐっておいた。

 残り半年ぶんの無病息災を願って。



「美雨さんあてに手紙がきてたよー」


 差出人は時川ときがわ姓――つまり美雨の親族だろう。

 蛍にとっては見慣れないなまえだったが、とりあえず封筒を美雨に渡す。

 美雨は半月ほどまえに預かった花嫁衣裳を繕っていた。代々母親から受け継がれてきたもので、白絹に豪奢な四季の花々が刺繍されている。劣化して刺繍の一部がほつれていたので、直しているのだという。

 除湿機が回された作業部屋で、美雨は日がなひとりで作業をしている。

 除湿機の稼働音と雨音だけが、規則的に室内に響いている。

 美雨は封筒を一瞥しただけで、鋏でぱつんと裁断し、手紙をごみ箱に捨てた。


「……見なくてよかったの?」

「うん」


 鋏をしまいつつ、美雨はいやそうに顔をしかめる。


「どうせ見合い。親族がときどき送ってくるの」

「美雨さんは結婚しないの?」

「しない」


 鋏の裁断音とおなじ、ぱつんとした声だ。

 ごみ袋を縛って新しいものを出しながら、蛍は少し考える。

 美雨が結婚に乗り気じゃない理由のひとつは蛍だろうか。

 誰だって、美雨の歳で、家にこんな大きい子どもがいたらびっくりする。


「おれなら、高校卒業したら、出ていけるよ」


 美雨は手元の花嫁衣裳からびっくりしたように目を上げた。

 白く細い指先が、針を針刺しに戻す。


「蛍」


 夜に降る雨に似た声で、美雨が呼んだ。

 手を止めてそばに座ると、うつくしい手が、そっと蛍の頭をひと撫でした。

 それは愛情というには透明で、淡雪のようにやさしい。

 美雨はいつも、おそるおそる蛍の頭を撫でる。

 誰かと重ねてしまわないように。それで、蛍をきずつけることがないように。


「ここは君の家だから、いつまででもいていい。いなくてもいい。いなくなって、帰ってきてもいい。ぜんぶ君の自由よ」

「……うん」

「いつまででも、いていい」


 もう一度、美雨は丁寧に繰り返した。

 急にふわりと、溜まった雨水があふれだすときみたいに、泣きそうになった。

 兄の葬式ではじめて会ったときとおなじだ。

 あのとき、美雨は蛍に向けて、手を伸ばしてくれた。

 美雨と蛍のあいだには、まだ何のつながりも、感情もなかったのに。

 兄という欠落が、おれたちをつないだ。

 着物にできた大きな穴に針と糸が行き交うように、日々を紡いだ。


「……豆乳うどん作る?」


 うまく返事ができなくて、ありがとうの代わりに尋ねた。

 美雨はちいさくわらい、手を下ろした。


「野菜のかきあげ、のせてくれる?」

「豆乳にひたひたに浸すんでしょ。揚げるよ」


 いつもの調子を取り戻して、蛍は立ち上がった。

 美雨もまた、針刺しから針を抜き、作業に戻る。


 雨が続くこの時期、美雨はことさら食が細くなる。

 葵が死んだ季節だからだろうか。

 美雨は葵がだいすきだったらしい。

 ほんとうに、だいすきだったらしい。

 ふたりの出会いはひみつで、蛍は詳細を知らない。

 けれど、前にどうして自分を引き取ったのか美雨に尋ねたら、こう言っていた。


 ――葵くんが、君をたからもの、と言っていたから。


 美雨は雨に濡れた花のように微笑んだ。


 ――わたしも、たからものにしたい、と思ったの。


 たとえば、いつか蛍がこの洋館を出て行ったら、美雨はずっとひとりで生きていくんだろうか。

 生きていくんだろうな、と思った。

 日々古裂を繕いながら、静かに、まっすぐ生きていくんだろう。

 葵という、もう繕うことができない欠落に、それでも針と糸を行き交わせながら。


 野菜のかき揚げを菜箸でトレイにあげると、蛍は大ぶりな碗を出した。

 台所には香ばしいかき揚げのにおいと豆乳のやさしい香りが満ちている。


「美雨さん、ごはんできたー」


 作業室の美雨にも届くように声をかける。

 ごま味噌を入れた豆乳うどんに、野菜のかき揚げをのせる。

 美雨の言うとおり、ひたひたに浸して食べるのがおいしいのだ。

 居間のちゃぶ台にうどんと小鉢、箸を並べて、麦茶を入れる。

 こちらに向かってくる美雨の足音を聞きながら、昼間の、雨の中にたたずむ茅の輪のことを思い出した。

 おれは来年も、このひとのために茅の輪をくぐるだろう。

 このひとのために、野菜たっぷりのかきあげも揚げるだろう。

 いつか、兄や美雨のように、誰かと大恋愛をしても。しなくても。

 この家にいても、いなくても。ずっと。

 祈る。

 

 おれを、さみしさから掬いあげてくれたひと。


 ――どうか、今年も貴女が兄を喪った夏を乗り越えられますように。

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