Layer01:バグ、あるいは運命の出会い

Node1.1:ダイブ・イントゥ・V.B.L

午前一時過ぎ。地方都市の夜は、都会よりも深く、重い。

窓の外には漆黒の田園風景が広がり、時折通り過ぎる自動運転トラックの重低音が、遠雷のように腹の底に響いては消える。

築20年の木造家屋。その二階にある一ノ瀬遥の部屋は、卓上ライトの青白い明かりだけが灯り、一種異様な、儀式前のような緊張感に包まれていた。


机の上には、通販で届いたばかりの『V.B.L専用アクセス・ギア:Model-X1』が鎮座している。それは従来のエンターテインメント機器とは一線を画す、流線型のヘッドセット型デバイスだった。


当初、遥はスマートフォンでの簡易プレイから始めようと考えていたが、どうせ挑むなら本気で――そう思い、ダメもとで父親の大樹に専用端末をねだってみた。

意外なことに、父は何も聞かず、ただ「やりたいようにやりなさい」とだけ言って、最新鋭のこのギアを買い与えたのだ。

マットブラックの筐体には、ネットワークへの接続状況を示すインジケーターが、まるで生き物の脈動のように微かに点滅している。


このギアは、場所を選ばない。家庭用の光回線はもちろん、スマホのテザリング、街中のフリーWi-Fiに至るまで、あらゆる回線を束ねて最適な通信経路を「仮想構築」する。そして、装着者の脳波を検知し、運動野の電気信号をダイレクトにネットワーク上のアバターへ転送する「*ニューロ・リンカー」だ。

頭で念じた動きが、0.01秒の遅滞もなく、思考と同じ速度でメタバース上の身体動作へと変換される。


「リアルでは叶わない夢も、ここでは――」


デバイスの化粧箱に刻まれた銀色のキャッチコピーが、呪文のように遥の視線を釘付けにする。遥は、じわりと掌に滲む汗を、使い古したジャージの裾で何度も拭った。

ヘッドセットを手に取り、頭に装着する。視界が断たれ、暗闇の中に冷徹なシステムインターフェースが浮かび上がった。

視線の先にあるのは【LOGIN】の仮想ボタン。あとは、意識をフォーカスして決定を下すだけだ。けれど、遥の指先ならぬ「意識」は、小刻みに揺れて定まらない。


(ほんとに、行くの?)


胸の奥で、もう一人の自分が冷ややかに問いかけてくる。このキャッチコピーは甘美だが、ここに逃げ込んでしまったら、それはリアルの自分――身長150センチの不完全なバスケットボール選手としての敗北を、永久に認めることになるんじゃないのか?

これは「逃げ」だ。バーチャルという名の電子の麻薬への甘えだ。そんな自責の念が、強烈なブレーキをかけ、ヘッドセットを外す。


だが、その躊躇いを焼き尽くすように、今日の夕方、体育館の冷たい床の上で浴びた視線がフラッシュバックする。

自分を見下ろす相手センターの、感情のない、まるで見えないゴミでも見るような冷ややかな視線。頭上からハエでも叩き落とすかのように弾かれたボールの、乾いた破砕音。床に転がった自分に向けられた、顧問の、同情という名で塗り固められた諦めの溜め息。


『あと10センチあれば、だれにも負けないのに……』

その言葉が、遥の心臓を掴んで離さない。


誰よりも練習した。誰よりも走り込んだ。技術(スキル)には自信がある。速度(スピード)も人並み以上と自負がある。そして誰よりもバスケを愛している。

それなのに、「高さ」という努力では書き換えられない遺伝子の設計図(パラメータ)が足りないだけで、私はコートに立つ資格を与えられないのか。

物理法則という名の不平等。この世界には、残酷なまでの「檻」が存在する。


――もし、背が高ければ。

――もし、この筋肉がもっと強ければ。

――もし、重力という呪縛がない世界なら。


遥は震える心の声を押し殺し、ヘッドセットを再び装着した。

ずしりとした重みが、後戻りできない決意の質量のように感じる。再び視界が遮断され、完全な暗闇が訪れる。こめかみのセンサーが肌に吸い付くように触れ、キーンという高周波の駆動音が脳内を駆け巡り始めた。その闇の中で、遥は心の中の“もし”に答えを出すための扉を、自らの意思でこじ開ける。


「リンク、スタート」


瞬間。脳の奥底を直接、氷のような冷たい指で撫でられるような、奇妙な浮遊感が全身を襲った。

視神経がジャックされ、鼓膜の奥で電子的な風切り音が鳴り響く。

重力が消え、畳の感触も、湿った夏の空気も、遠くのトラックの音も、すべてが情報の彼方へと置き去りにされていく。信号化された意識が、光ファイバーの網を駆け抜け、遥か彼方のメインサーバーへと吸い込まれていく。

それは、魂だけが肉体という「重い檻」から引き剥がされる、冒涜的で、けれど抗いがたく甘美な飛翔だった。


すこし吐き気にも似た酩酊感の後、遥は「純白の虚無」の中に立っていた。足元にはグリッド状の光が走り、どこまでも無機質な空間が広がっている。ここは「アバター・ビルド・ルーム」。リアルの肉体をデジタル・データへと翻訳する、特異点。


『ようこそ、JVBL(ジャパン・バーチャル・バスケットボール・リーグ)へ』


中性的なシステム音声が、頭の内側で直接響く。

目の前に、等身大の鏡のような高精細ホログラムが現れた。そこに映っているのは、リアルと寸分違わぬ、ジャージ姿の冴えない自分――150センチの一ノ瀬遥だ。


『あなたの生体データをスキャンし、各パラメータを抽出します。ニューロ・リンク完了。これより解析を開始します』


光のリングが遥の体を頭上から足元へと、まるでCTスキャンのように走査していく。

リアルでのフィジカルテストの記録、体組成、神経伝達速度、さらには無意識下の反応速度。すべてが0と1の数値へと還元されていく。やがて、空中に残酷なまでの、しかしどこか誇らしげな「リアル・スコア」が表示された。


【REAL-BASEPARAMETERS】

■フィジカル:D└垂直跳躍:E/コンタクト耐性:D

■スピード:S└アジリティ:S+/反応速度:S

■オフェンススキル:A└シュート精度:A/ボールハンドリング:A

■ディフェンススキル:A└スティールセンス:A+/ポジショニング:A

■ゲームIQ:B


「え……?」遥は我が目を疑った。

フィジカルのDは予想通りだ。しかし、スピードがS?オフェンスもディフェンスもA?リアルでは、ブロックされ、当たり負けしてばかりの自分が?


『システム解説:あなたのアジリティおよび反応速度は、世界トップクラスのプロアスリートに匹敵します。リアルでは、肉体的な制約――すなわち「身長」と「絶対的筋量」というハードウェアの限界により、これらのポテンシャルが十分に発揮されていません。V.B.L―HARMONIA―・アーキテクチャでは、あなたの“本当のポテンシャル”が正しく数値化されます』


「私が……A……ううん、S……?」

震える声が漏れた。間違っていなかった。放課後の誰もいない体育館、血が滲むまで繰り返したドリブル練習も、酸欠で意識が遠のくまで繰り返したシャトルランも、すべて無駄じゃなかったんだ。ただ、私の魂(ソフト)に対して、リアルの体(ハード)が追いついていなかっただけなんだ。胸の奥から、熱い塊が込み上げてくる。


『これらの数値をリソース(資源)として、アバターの能力値を再配分(リビルド)できます。アバターの身長等を変更する場合、スライダーを操作してください。なお、パラメータは、オート調整することも可能です』


遥は迷わず、空中に浮かぶ『身長(Height)』のスライダーを掴んだ。一気に150センチから、自分をブロックしたあの相手より大きい「185センチ」まで引き上げる。ほかの項目は、オートで調整。

アバターの視界が劇的に高くなる。自分を見下ろしていた世界を、今度は自分が支配する番だ。だが、その瞬間、システムアラートの紅い光が激しく明滅した。


『警告:特定の項目への極端なリソース配分は、他のパラメータを著しく侵食します。再配分(リビルド)は、運動エネルギー保存の法則に基づき、等価交換により行われます。最適化を行ってください』


数値を確認すると、スピード、オフェンス、ディフェンスのすべてが「C」以下まで削ぎ落とされていた。テストモードで一歩動こうと試みるが、アバターがぐらりと傾く。

手足が、まるで水中の鉛のように重い。思考(コマンド)に対して、アバターの動き(レスポンス)が大きく乖離する。


「嘘……これじゃ、動けない」

私の武器だったあの「床を叩く鋭い踏込み」も、「吸い付くようなハンドリング」も、この巨体の中では完全に死んでしまう。巨体という名の、新たな檻。

「……欲張りすぎちゃ、ダメ、なんだ」

遥は唇を噛み、スライダーを慎重に戻した。


180……まだ慣性(イナーシャ)が大きすぎる。178……。175センチ。そこで、フッと全身の「ノイズ」が消え、意識とアバターが完全に同期(シンクロ)する感覚があった。パラメータを確認する。

ゲームIQが「C」に落ちたが、スピードは「A」、スキル類も「B+」を維持。150センチの瞬発力と、175センチという「理不尽に負けない高さ」が融合した。


「これで、行く。これが、私の理想の戦える形だ」


決定ボタンを強くタップする。アバターの骨格がデジタルの光と共に再構築され、筋肉の出力が最も効率的なバランスに最適化される。これが、私が欲しくてたまらなかった「自由」という名の新しい器。

(あとビジュアル・スキンは、少し大人っぽくと……)


『最後に、コートネームを登録してください。これよりあなたは、リアルの属性から解放された唯一無二の存在となります』


空中に入力フォームが浮かび上がる。

「一ノ瀬遥」ではない、新しい私の名前。胸の奥に浮かんだのは、かつて部室で見た、古い海外のバスケットボール雑誌の片隅に載っていたプレイヤーとその言葉。暗い宇宙の深淵で爆発し、どんな恒星よりも一時的に眩しく輝く、誕生したばかりの星。


彼女は指先で、空間を弾くように打ち込んだ。


――【NOVA-Johannès】(ノヴァ・ジョアネス)

『登録完了。これより、身体感覚の最終キャリブレーションを開始します。――戦場(コート)へようこそ』


瞬きをした次の瞬間、足元の白い虚無が弾け、まばゆいネオンと爆音の重低音が鳴り響く「メタバース・アリーナ」が姿を現した。


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2026年1月3日 09:00
2026年1月4日 09:00
2026年1月5日 07:00

『150cmの少女(バグ)が放つ一投は、国家の闇をぶち抜く。 ――仮想バスケで世界を狂わせる『ノイズ』になれ!』 -V.B.L” Virtual Basketball League “ - 蒼井 理人 @FebKin

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