其の五 沛公已去

 沛公が去り、暫く。張良はここで、宴会場に戻ってきた。


「………沛公は?」

「………酔ってしまい、退会の挨拶をすることができません。其のためあの方は、私に項王様に白壁一対と、范増様に玉杯をお渡しするように申しました。」

「今、沛公はどこにいる。」

「………項王様が、沛公様のことを許さないだろうとお考えになり、既に抜け出してしまいました。今頃、私たちの軍中に到着している頃です。」

 范増の顔に、強い怒りが宿った。それに対して項王の顔に変化は見られない。宴会が始まった其の時から、そこに感情が宿ることはなかった。


 項王は白璧を受け取ると、喜ぶような素振りも見せずにそれを座席の横に置いた。一方、范増は玉杯を手にし、地面に置いて。すぐ、台頭していた刀を抜き出して突いた。ヒビが伝染し、美しい杯が跡形もない姿と変わる。松明のオレンジ色の炎の光が、欠片一つ一つに反射した。

 范増の瞳は、怒りに燃えている。其の眼光は、項王を捉えていた。


「この、若造が。天下を取るなんて、笑わせる。項王も沛公も王の器などではない。」

「范増。」

「このままではあいつ………沛公などに皇帝の座を奪われてしまうだろう。我々は近い未来、あいつの捕虜になるのだ。それが本当にわかっているのか?項王よ。」

「………」

「項王!」


 ここで、物語は終わる。項王と沛公は再び衝突し、天下を争うことになる。

 そう、決められている。


 そう、歴史では決められていた。

 其の瞬間、項王は高笑いをあげた。


「………なぜ笑うのだ、項王。」

「はっ!ああ、すまない。実に滑稽だと思ってな。」

「何がおかしい!」

「………范増。」


 張良を、悪寒が襲った。もう一人の「君主」の姿を目撃した瞬間だった。


「お前は、正しいよ。私は皇帝にはなれない。そう、。」

「は………?」

「皇帝になるのは沛公だ。そして、私は彼との戦いで死ぬ。」

 何も捉えていない瞳だった。

「………だが、今日感じたのだ。歴史とやらに抗ってみたい、とな。」

「………項王。」

 外では、風が吹いているのだろう。屋根の軋む音が聞こえた。


「決められた運命に抗う英雄。随分興奮する画にならないか?」


「わからない。何が面白い?何が見えている!」

「わからなくても良い。………わかるのは、あいつだけでいい。」

 なあ、沛公殿。項王は、敢えてそれを言わなかった。


 その、翌日。密告者である曹無傷の処刑が行われた。

「………曹無傷は、見事に敵に踊らされてしまいましたね。沛公様のような超人に楯突くからでしょう。」

「………」

 樊噲の呼びかけに、沛公は答えない。

「………沛公様?」

「ああ。すまないな。私は、本当に王に相応しい人物であるのかと、考えていたのだ。」

「何を言うのですか。あの項王を出し抜いたのです。立派な王の器です。」

 しかし、沛公の表情は暗いままだ。何かに悩むように。


「………出し抜いたのではない。あいつは………項王は、結末を知っている。そして、私にも其の結末がわかっている。」

「………?」

「それでも尚、項王は抗うのだ。私に殺される運命を知りながら、私を殺さなかった。」

 沛公は、遠くに梟を見つけた。先刻、鴻門の近くの木に留まっていたものと似ている。其の目は昼にも関わらず、黒い。


「本当の王は、どちらであろうか。」


 己が王であっても、なくても。

 それでも、沛公は戦う。

 称号のために。己の正しさを信じるために。


 乾いた風が吹き、梟が飛び去った。曇り空の中に、まるで吸い込まれるような形で舞い上がる。其の行き先は、誰も知らない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

史記 鴻門之会 蒔文歩 @Ayumi234

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画