其の四 公為我献之

 すぐ、後の事だった。沛公が立ち上がる。


「厠に行かせてください。」

「ああ。」

「………樊噲、お前も来い。」

「え、はい。」


 宴会場から、二人が消える。沛公は扉を閉める時、敵の顔を見ておこうと思った。本当に立派な軍人だ。こちらの思惑にも気づいているのだろう。

 それにもかかわらず、なぜ咎めないのか。きっと、深い意味はないのだろう。この宴会を通して、沛公はそう理解するようになった。


「………なあ、樊噲。」

「はい、なんでしょう。」

「出てきたは良いものの………別れの挨拶なしでは失礼ではないか?何かできることはあるだろうか。」

「そんなことはないでしょう。沛公様はいつか天下を取るのです。そんな些細なことにかまっている時間はありませんし、大きな儀礼の場では小さな譲り合いは必要ありません。」

 それに、と樊噲は補足した。

「ここは相手の領地。項王たちの立場は、丁度まな板と包丁のようなもので、私たちはこれから捌かれる魚のようなものです。別れの挨拶をする必要なんてありません。」


「なあ、沛公はまだか。」

 宴会場。項王が盃を揺らしながら、呟く。范増が、足を揺すらせて焦りを顕にしている。

「………沛公はまだか。」

「私が、様子を見てきます。」

 沛公の部下である都尉とい陳平ちんぺいが、厠へと様子を見に行った。宴会場の外では、梟がじっと中の様子を見つめている。項王が睨み返すと、梟は短く鳴き声をあげて、夜の闇へと飛び立ってしまった。


 沛公は鴻門を去る前に、張良を呼び出した。

「………行くのですね、沛公様。」

「張良、頼みがある。これを、項王様と范増殿に渡してくれないか?」

 沛公が取り出したのは、白璧一双。そして、玉製の杯。白璧一双とは、非常に高価な宝飾のことを指す。月明かりを反射して、其の二つが強い光を放つ。

「白璧は、項王様に。杯は、范増様に渡せ。本来私から渡そうと思っていたが、范増様の怒りを買ってしまうだろう。………頼む。」

「………仰せのままに。」


 項王軍の勢力内である鴻門から、沛公軍の拠点である霸上までは、約四十里。だが、抜け道を使えばもっと早く到着できる。

「私は一人で馬に乗って霸上はじょうへ行く。樊噲たちは酈山りざんの麓から芷陽しようへ行かせるつもりだ。私が到着する頃合いを見計らって、宴会の席に入ってこれらを渡してくれ。」

「はい。では、ご無事で。」

 沛公は馬に跨り、出発しようとした。すると、張良が何かを思い出したように引き留めた。

「沛公様!」

「ああ………なんだ?」

 手綱を引いて、君主が戻ってくる。張良は少し罰が悪そうな顔で、提案する。


「………私は、項伯を味方にすることを提案します。」

「項伯………剣舞で私を守った者か。あの者にもお礼をしなくてはな。」

「あいつとは、腐れ縁ですが、良い戦友です。こんな場所でする話では無いですが………項伯を信頼しています。」

「………そうか。」

 沛公は、小さく笑った。


「戦友」。沛公も、項王のことをそう呼びたかった。

 だけど、やはり彼らは「敵」にしかなれなかった。

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