第4話
§
石膏像を描く事を、僕はきっぱり諦めた。
僕が描くべきなのは、完璧な黄金比率で作られた石膏像ではなく、僕の右手に魔法を宿らせてくれる天月彩葉、ただ一人だけだ。
彼女は僕の才能だ。
そう自覚した瞬間、僕の世界は鮮明な色彩を取り戻した。
けれど、描き続けているうちに、キャンバスに向かう君の顔だけでは満足できなくなっていた。
今や、君が僕に見せない一瞬を捉える事が僕の習慣になっていた。
君を見つめる事で得たこの観察眼を駆使し、一瞬の隙を探すようになっていた。
部活の合間、彼女が喉を鳴らしてペットボトルを口に付ける瞬間。誰もいない廊下で、不意に出たあくび。眠たそうに目を擦る無防備な仕草。
絵の題材としては美しくない筈の断片も、僕の瞳にはとても高価な栄養で、どんな名画よりも輝いて映った。
彼女の無表情が崩れる瞬間は、僕にとっては大きなご褒美だった。
君の知らない一面を全て知り、全ての面を揃えて完璧な君を描きたい。 僕の欲求は日に日にエスカレートし、強欲になっていた。飽くなき探究心が留まるところを知らない。
でもそれだけじゃない。
君の無防備な姿は、単純に愛らしい。周囲の目に関心のない君は、翻せば隙を見せる事を問題にしないという事でもある。だから君の表情や仕草には、自然で飾らないありのままの姿が露わになる。そうした素の君はどうしようもなく可愛い。
僕はそれを、スケッチブックに描き留める。それはただの練習帳じゃなくて、僕の宝物のような気持ちが宿る。だからこれは、誰にも見せない。君にさえ見せるのは憚られる。見せたら流石に怒るかもしれないし。 けれど、その秘密は呆気なくバレる。
「・・・・・・なにこれ」
不覚にも、スケッチブックをカバンから落としてしまう。その際、ページが開かれた状態で床に落ちる。
そこには、口を大きくあけてあくびする姿、ペットボトルの飲み口を離して口元を拭う姿、眠気眼を擦る姿などなど、様々な君の無防備が見本市の如く描き連ねてあった。
それをあろう事か、天月さんが拾い上げる。そしてスケッチブックの中身を見て、珍しく彼女は感情を発露させた。そこには静かな怒りが込められていて、普段感情を表にしない分、凄みが感じられた。僕は冷や汗を掻く。
「こんなの、いつ描いたの?」
「そ、それは・・・・・・」
「これ、部室の時じゃないよね? 教室、廊下、休み時間に授業中・・・・・・ねぇ、君はいつから監視カメラになったの?」
天月さん目には怒りと羞恥が滲み、頬は赤らんでいた。
普段、どれだけ凝視されても、描かれても無頓着だった彼女が、初めて動揺を見せている。
「こんなの描いていいなんて許可してないよね」
そう言って天月さんはスケッチブックを僕の頬にぐいぐい押しつけるという可愛らしい抗議の形を採用するけれど、スケッチブックの角で頬を突くという陰湿さが彼女の怒り加減を現していた。
「いや、描いていいって言ったよ」
「こういう事じゃない、バカ。ふざけるな」
彼女は眉根を寄せ、その目は潤んでいた。言葉には怒気が混ざるも、普段怒り慣れていないから、言葉にぎこちなさが残る。
そんな彼女を見て、僕は反省よりもまず「抗議する彼女」をその目に焼き付けていた。
新しい君の表情と仕草の発見。
怒っている彼女の顔にも、僕の知らない筋肉の動きがある。肌の赤らみがある。
それを見つけた喜びの方が勝り、僕の心臓は跳躍する。
――いい、この顔も可愛い。怒った君も可愛い。
ただ純粋に、君の怒った顔が新鮮で魅力的に感じる。
怒らせて申し訳ない――という気持ちもあるにはあるけれど、それ以上に、君の事を知れて嬉しいという気持ちの方が遙かに上回っていた。
そんな君の表情も描き留めたいという欲求が、倫理観を踏み越えていく。
でもこのまま怒らせる訳にはいかない。
「ごめん、分かった。もう描かないから」
僕は嘘を吐いた。
今の、その真っ赤になって怒ってる顔も、後で描くと心に決めながら。
「・・・・・・本当に? 絶対?」
「うん、本当。約束する」
息を吐くように嘘を吐く。
すると天月さんは、不服そうな表情で僕を見つめながらも、やがて溜め息を吐いて、「・・・・・・ならいいけど」と、どうやら信じてくれたみたいだ。
僕は安心して笑みを浮かべると、彼女は釘を刺す。
「今度描いたら、二度となにも描かせないから」
モデルを拒否する宣言をした。僕にはそれが一番効くと思っての、彼女にとっての一番の脅し文句なのだろう。そんな風に自分自身を人質に取るのがおかしくて、僕はまた笑いそうになるけれど、これ以上信用を失ってはいけない。僕は従順なフリをしてその場をやり過ごした。
彼女が立ち去った後、僕はスケッチブックの新しいページを開く。
そこには、まだなにも描かれていない筈なのに、今さっきまで僕を睨んでいた君の、愛らしい怒りの顔の残像が鮮明に浮かび上がっていた。
§
最初は、純粋に盗むつもりだった。 彼女が握る筆の太さや、筆を置く角度、キャンバスを叩くリズム、混色の配分。
技術やロジックを得られれば、君のような絵が描けると思っていた。
けれど今や、僕が関心があるのは魔法が宿る君の右手ではなく、君自身だった。
そして、僕が見出した一筋の光を描き出す為に必要なのは、彼女の技法を盗む事じゃない。君の持つ「オパールブルー」をパレットの上で再現できなくてもいい。ただ、僕の中にある君への異常な執着と愛着だけがあれば、それでいい。
君を描く 大いなる凡人 @shido0742
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