第3話
§
天月さんが公認モデルになってくれた日から、僕の画力はさらに向上する。
公認を受けたとはいえ、額面通りに天月さんを描きまくる僕の厚かましさは、流石の君も呆れているかもしれないけれど、でも彼女はいつも無表情だった。感情が読み取れない事は厄介だけれど、読み取れないから好きに解釈出来るとも取れる訳で、今の僕にとって君の無表情はむしろ好都合だった。イヤな顔をしない限り僕は君を描く。
本当に面の皮が厚い。前世はパンプキンだったのかもしれない。
ともあれ、僕は開き直りの境地で君を描く。描く。何度も、何度も。何枚も何枚も。飽きる事なく、描く。 僕にとって君は欠かす事の出来ない存在であり、心を掻き立てる存在なのだ。
君がいる限り、僕の画力の向上は止まらないだろう。そうした確信があったし、革新があった。僕の右手はまるで魔法が宿っているみたいに思い通りに線が引けるのだ。この全能感たるや、まるで才能だ。
才能を持った事がないから分からないけれど、でもこれに名前を付けるなら才能と呼んで差し支えないんじゃないだろうか。それほどまでに僕の画力は飛躍的に向上していた。
――だが。そんな僕の自負は、美術部の定期課題である石膏像のデッサンによって打ち砕かれる事になる。
§
目の前に白く冷徹な石膏像、ブルータスが鎮座している。
僕はブルータスの石膏像を前にして、石膏像と引けを取らないほどに硬直していた。
「・・・・・・描けない」
以前までの僕なら、それなりの形は取れた筈だ。けれど、今の僕は、最初の一本目の線さえどこに引けばいいのか分からない。
白紙のどこからスタート地点を置けばいいのか、まるで見えなかった。ただただ、寒々しいまでの四角四面の紙があるだけだった。
だからと言ってなにも描かない訳にはいかない。周囲のペースに置いていかれないよう、無理矢理にでも鉛筆を動かしていく。けれど、そうして描かれた絵は、形の狂ったゴミクズだった。
なぜだ・・・・・・。僕の画力は向上した筈。なのになぜ、石膏像を描く時、その画力が発揮されないんだ・・・・・・。 自分の身に一体なにが起きているのか分からず、僕は困惑していた。そして一気に自信を失う。
もしかして本当は、僕に画力なんてなくて、ただの付け焼き刃の技術しかなかったんじゃないか? 同じ絵ばかり描いてるから、上手くなった気になってるんじゃないか?
そんな疑問が頭をもたげる。
僕はそんな現実を直視出来ず、書き写した石膏像から目を背ける。そしてふと、隣にいる天月さんのスケッチブックを見やる。
すると流石は天月さん、滑らかな手付きで見事なまでに石膏像を描写している。
彼女が引く線は、石膏像を的確に描写するだけじゃなく、その質感や温度が伝わってくる。
「・・・・・・天月さん、どうしてそんな風に描けるの?」
僕は思わず、訊ねていた。
集中して描いてる彼女の手を遮るような真似をしてしまった事にすぐ後悔するけれど、天月さんは怒る事も、機嫌を損ねる事もせず、ただなにも言わずに僕の無残なデッサンを見やり、そしてやがて無表情を僕に向けた。
「ちゃんと観て描いた?」
「え?」
端的に彼女は言う。
「だってそれ、手癖だよね? 見た気になって描いてるだけ」
「見た気に・・・・・・いや、見て描いたけど・・・・・・」
「でも君の描いた石膏像と、実際の石膏像では全然違う。君のこのデッサン、私を描く時の線の引き方をそのまま当てはめようとしてる。でも石膏像には生身の人間の柔らかさも、首筋の脈動もない」
「・・・・・・・・・・・・」
「君は、対象を理解しようとしてるんじゃなくて、自分の都合のいい型にはめようとしてるだけ」
天月さんは平坦な声で、極めて残酷に事実を指摘した。僕はなにも反論出来ない。確かに、僕の描いた線は、決して石膏像を描くに適した線ではない。だってこれは、天月さんを描く際に生まれた線だからだ。
「私を描いてる時は、もっと観て描いてたよ? でも石膏像を描く時は違う。興味なさそうなのが透けて見える」
「興味が、ない」
それはそうだ。
だって石膏像だ。無機質なただの石を描いていて楽しい訳がない。なんて事を言うと、基礎を疎かにして上手くなろうとするな、という厳しい助言が飛び交いそうだけれど、そしてそれはまさにその通りなんだけれど、でも石膏像を見ても僕の筆は全くと言っていいほど動かなかった。無理にでも描いた線はぐちゃぐちゃで、上達に向かっているとは、とてもじゃないが思えない。
天月さんを描く時ほど夢中になれない。無気力にしかなれない。彼女を描いてる時の僕は無敵だった。どこに線を引けば君を精巧に描き出せるのか分かる気がしたんだ。根拠のない自信が僕をどこまでも突き進ませた。けれど、石膏像を前にした時の僕は路頭に迷ってしまった。どこを起点にしてどこから線を引けばいいのかまるで見えない。
石膏像を描く時、白紙に浮かび上がるような輪郭が一つも見当たらない。
それはなぜか――興味がないからだ。
そう、興味が湧かないからだ。
そう、そうなんだ。
僕は得心する。
僕が手に入れたあの魔法のような全能感、才能と名付けたものの正体が分かった。
あれはただの画力の上達なんかじゃない。それはむしろオマケで、本質じゃない。
あの迸るように描き出される筆の動きの本質は、技術の向上なんかじゃなくて――僕がただ、天月彩葉という存在を病的に愛し、執着し、その一欠片も逃したくないと願うあまり、彼女という対象だけに特化した異常な観察力が生み出したものなのだ。
石膏像には、僕の心を掻き立てる情熱的な視線も、強く引き結ばれた唇も、感情の発露でふくらむ小鼻の動きも睫毛の陰影で深みがかった瞳の印象も体温もなにもない。
無機質だ。
無機物だ。
無味無臭で無味乾燥。
無しかない。
だから僕の網膜は情報の処理を拒否する。興味が持てない対象に、僕の気持ちは火が付かない。
技術と観察力は、時間を掛ければ誰でも身に付く――けれど、その二つを限界まで引き出し、継続させる為の執着というガソリンが、僕にとっては天月彩葉だったんだ。
天月彩葉――君は僕の才能だ。
絵の題材として、一人の人間として、あるいは僕を特別にしてくれる唯一の存在として、君は僕の才能でいてくれる。
僕は石膏像のデッサンを放り出し、再び彼女を見た。そして確信する。
石膏像よりも、君の方が僕にとっては描くべき真実だ。
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