第六話

 次の週末、私はS浜工場の近くを歩いていた。

 飛び降りがあった日に見たものが気になって、S浜工場について調べたところ、いくつかのオカルトめいた話が見つかった。事務室の倉庫で首を括って亡くなった女性の話、そして、霊能者がお祓いに失敗した話。信じがたいとは思ったけれど、そのうちのいくつかは実際のニュース記事でも事件があったことが確認できた。

 こうした不思議な話が好きだった私は、どうしても気になって、仕事でもない休日に、こうしてS浜工場近くをうろついている。

 工場の敷地は、私が思っていたよりずっと広く、縦横数百メートルにもなる。周囲をぐるりと回るだけでそれなりの時間が経ってしまう。ときおり、緑地帯の隙間から工場の内部の様子が見える。何人かの見慣れない作業服の人が見えた。どうやら休日であっても完全に無人というわけではないらしい。運良く機器のメンテナンスに来ていた男性にも話を聞くことができた。

 やがて工場の終わりが見えてきた。工場裏は小高い丘になっていて、あたり一帯が見渡せそうだ。なんとなく私は、舗装されたその小高い丘へ足を進めた。緩やかなレンガ造りの小道に、点々とベンチが設置されている。

 やがて丘の上に差し掛かる頃、白髪の男性がぼんやりと景色を眺めているのが見えた。距離が近づいてくるにつれて、不思議な感覚を覚える。老人というには若い。しかし、髪は全て色が抜けており、年齢を不確かなものにしている。

 あの、と声をかけると、男性は少し驚いたような顔をしたが、「こんなところで、珍しいですね」と笑顔を浮かべた。確かに、ここへ来るまで誰にもすれ違わなかった。

 このあたりは昭和四十年代に湾岸整備の一環で埋め立てられて作られた土地なのだそうだ。だから、あたり一面に工場が建ち並んでおり、民家はほとんど存在しない。だから、緑地の確保という名目で緑に囲まれた歩道を整備したものの、利用する人はほとんどいない。そんなところに来る私を珍しく思うのも自然なことだ。

 私は、このS浜工場について調べていることと、何か知っていることはないか男性に尋ねた。

「ああ、そういうことか」と納得したような表情を浮かべてから、「たまにいるんだよ」とため息をついた。自分でも変な噂を信じて調べ回っているのだから迷惑な人間だろうと思う。少し後悔したけれど、好奇心には勝てなかった。

「ここで、何が起きているのでしょうか?」

「そうだなあ」と、男は視線を宙に浮かべた。

「この世界にはなあ、昔から人が入ってはいけない土地、神聖な場所ってのがある。そういうことはよ、長いあいだ人が生きてきて、経験を何度も積み重ねた結果、自然と人は畏れを抱くようになるんだ。あんただって、神様がいるようなところにおいそれと立ち入らないだろ?」

 私だって、神社仏閣に行けば神聖な気持ちになる。長くこの国に暮らしていればそれが当然だろう、とも思う。

「ところがな、ここら辺にはそんな話は全くない。そりゃあそうだ、埋め立てるまで誰も住んだことがないんだからな。わしらはこの土地のことを何も知らん。海埋めて、土地を広げる。こんなこたぁ許されるもんなのかよって思うぜ。だからどんな危険なとこなのか知りもせずに工場なんて建てちまってよ」

「ここが、そうした場所だというのですか?」

「そうだねえ。また少し毛色が違うのかもしれんけどな。もっと純粋で邪悪なところさ」

 男性から笑みが消えた。

「ここいらはね、あっちの世界との境目が曖昧になる場所なんだ。向こう側には異界の神が棲む世界が広がっている。わしら人間、いや、こっちに生きているもんとは成り立ちが違う。恐ろしい存在だよ」

「異界の神──ですか? そんな存在が本当に……?」

「太古の昔、地球を支配していた連中だ。凶悪で凶暴な奴らさ。アレに見られただけ、触れただけで人は絶望に支配されちまう、そんな存在だ」

 そんな危険な場所で人々は、私たちは働いていたのか。しかし、まだ続きがあるようで、「それだけで済めばよかったんだけどなあ」と男は続ける。

「良くない土地にゃあ良くないもんが近寄ってくる。良くないもんってのは悪い人間のことさ。街灯に集まる蛾のごとし、良くない考えをしている連中が吸い寄せられるように押し寄せてきやがった」

「どんな人たちだったんですか?」

「異界の神を信仰する奴らさ。異形の神たちに、この世界を終わらせてほしいんだとよ。穢れたこの世界を浄化してほしいだとか言って、まともじゃあない。そいつらがこの場所に目をつけて、S浜工場に潜り込むようになった。いつの間にか工場内は信者だらけになったんよ」

「その連中というのはどんな人たちだったのですか?」

「さあな。みんな死んだからな。事務室で首を括った女が最初だったかな」

 それは、Nさんの話だ。

「えっ、不倫していたことを思い悩んだ末に亡くなった、と聞いたのですが」

「そりゃあ違うさ。教祖の愛人だなんて言われてたけどな。死んだのはそれが理由じゃない。何があったかは知らねえが、アレに触れちまったんだ」

「そのあとは……どうなったんです?」

「奴ら、勝手に工場内で儀式かなんかし始めて、良くないことが起き始めた。流石に続くんで、何回かは手を打とうとしたんだけどな」

 これはCさんの話だろうか。それで所長が霊能者を呼んで除霊を試みて、そして、失敗した。

「あんた、あそこで働いてたら、車椅子の男ぉ見たことないか?」

 先日、飛び降りがあったときに見た男だろう。異様な雰囲気で、事故の様子を呆然と見ていたはずだ。

「あの人はな、昔所長だった野口さんって人だ。あまりにも立て続けに良くないことが起きるから、霊能者を呼んでなんとかしようとしたんだけどな」

 背筋が寒くなった。S浜工場の人たちが気を遣っているのも納得ではある。『全て終わりだ』と野口は言っていた。あの男はここで、何を見たのだろう。

「そもそも、あれは祓おうなんてもんじゃねえんだ。触れたら最後、魂を持ってかれてしまう。生き残ったのが奇跡だ」

 老人は遠い目をして言った。その様子で私は、この男性が誰か、理解できた気がする。

「あなたは、その時の霊能者の方ではないですか?」

 ふっ、と口元が弛んだ。

「自分がそんな大層な力があるだなんて、今考えると思い上がりもいいところだったな。触れちゃあいけないもんもあるんだ」

「そのあと、何が起きたのでしょうか……」

「もう何年前になるかな。世界の終わりが来るって予言があっただろう。奴らにとってはそれが真実、異界の神を信仰する者だけが救われる、なんて考えてな、やっちゃならねえ儀式をした。『闇門開放迎奉祝降あんもん かいほう げいほう しゅくこう』ってな、異形の神を讃える歌を歌い、祈り、世界の破滅を祝った。その結果な──」

 男は深く息を吸う。私は、その次の言葉を聞くのが怖くてたまらなかった。

「皆死んだ。教祖以外はな。中庭で首吊ってなあ。それぞれ植え込みの木に縄かけてな。綺麗に横一直線に並んでんだ。地獄のような光景だったらしいぜ。教祖はその真ん中で、ぼんやり空を見上げてた」

 背筋が寒くなった。ひゅう、と冷たい風が吹き抜け、遠くの工場からカツン、と鳴る音が聞こえる。

「だからな、こんなとこに長居するもんじゃない。ふとしたきっかけでアレと繋がったら最後、命取られるだけだ。運良く生き残っても、永遠に苦しむことになる。俺も野口さんも、もう何年もここに囚われてんだ。逃げようと思ってもどうしてもここに来ちまう。アレが悪さするところを、ただ見てるしかねえんだ」

 へへっ、と男は卑屈に笑った。

「若いの。あんたも、こんなところ長居したらいかんぞ。魂持ってかれる前に、さっさと離れるんだな」

 S浜工場に目を遣る。

 無機質なコンクリート造りの四角い箱。その上空に、黒い霞が覆っている。

 空を覆う、禍々しい闇。

 この世とは別の何かが、まるで蠢くように見えた。そこに一瞬、蛸の足のようなものがにょろりと蠢いて消えた。

 ここに居てはいけない。そんな言葉が深く心に刺さる。

 それ以来私は、二度とこの工場を訪れることはなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

湾岸地域の首吊り工場 千猫怪談 @senbyo31

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画