第5話
弟子にしてください、とアウドゥーラ公国まで追いかけて行って声を掛けた時、振り返ったメリクの表情を思い出した。
考えもしなかったことを言われたような、
思いもかけないことが起こったような。
『アリステアのエドアルト』だと名乗った時の、驚いた表情。
それに白い雪の中、微笑い掛けて去っていく後ろ姿も。
エドアルトはよろめくように後ろに下がり、慌ててその場から走り出した。
「俺は多分もっと早く死んでいたのではないかと」
「……北嶺に向かったのも、師匠から教えられた魔術を正しいことに使いたかったからか」
「正しいことというか……人生で初めて、同じ目的の為に生きてみたかったんです。
国の為に戦って、あの人は死んだ。
あの人が自分を嫌った国を愛せたのは、自分を愛してくれた兄上が、誰よりもサンゴールという国を愛していたから。
同じ事が自分も出来るんじゃないかと」
「メリク。俺はお前の話を聞いて、何故【魔眼の王子】に同じ話をしないのかなって思うよ。話せば、必ずお前が本当はどんな人間か分かるはずだ」
「その必要はないですよ」
メリクは立ち上がった。
「これは美談じゃないんです、セス」
とても近い将来、魂を消滅させる人間とは思えない、凛とした横顔を見せて言った。
「あの人に与えられた言葉、手を挙げられた痛み、
愛してたけど、憎んだことも事実で、その事実はこの胸の中にまだ確かにある。
サンゴールには二度と、戻りたくない。
女王陛下はいつも、第二王子に対して、俺を庇ってくれた。
あの方のその強さと愛情深さを、疎ましく思った気持ちも俺には鮮烈です。
貴方は母子関係にはないと言ったが、そうですよ。
あの方は命の恩人ですが、母親と思ったことは一度もない。
早く手放してくれと願ってた。
今更抱きしめられたり頭を撫でてもらいたいなんて、少しも思わない。
エドと旅先で会った時の絶望も、本当です。
【闇の術師】は自ら動く時に、悪しき因縁を生む。
自分が闇の術師だと自覚が無かったら、
あの時にこの命を絶って自刃していたかもしれない。
エドアルト・サンクロワの光は強くて、強すぎて……その無垢な心は、俺がサンゴール時代いくら悩んでも辿り着けなかった答えに、一秒で答えて来た。
こんな人間があの人の弟子だったら、きっと愛されて支えになっただろうと思いました。
自分の生きて来た悩みが、全て無駄に思えた。
――あんな絶望を、今更重ねてあの人に味わせるわけにはいかない」
「そのために自分が誤解されて、苦しみで、消滅して行っても構わないのか?」
「……。構いません。
それが避けがたいほどに苦しいなら、俺は北嶺なんかには行かなかった」
第二の生は、第一の生の完全なる延長ではないと思う。
だがその血を受けた子供なのだ。
無関係な存在ではない。
ラムセスは月明かりに照らされる【天界セフィラ】の草原を見た。
「――よく言うだろ。『神の祝福がありますように』って」
【天界セフィラ】で生きていると、ラムセスは確かに神の存在を近くに感じた。
だがそれは、ここに生きる天使と名乗る、彼らのことではなく、
彼らのことでさえ遥か高みから見下ろす、天そのものような存在だ。
見つめられている。
そんな大きな存在を確かに感じる。
そして、人が神と古来から呼んで来たものは、その『神』のことではないだろうかと。
その神の存在は、未だ世の秘密で、禁呪域の奥に隠されているのかもしれない。
しかし今その目に例え見えなくても、
存在を感じ取れるものはあるし、感じ取れる者はいる。
ラムセスは人間の直感と霊性を、そういう意味では信じていた。
この天界と呼ばれる場所にいる連中より、遥かにだ。
美しい星が照らす、ここは本当に、至高天なのだろうか?
……まだこの世界の上に、天意は連なっているかもしれない。
そんな風に考えることは、本当に妙なことだっただろうか?
「『神に愛されているかのようだ』と」
神に愛されているもの。
メリクがそう言われて頭に思い描くのは【光の王】と呼ばれた、美しい青年だけだった。
そしてその光が愛した、闇の宿命の中でも光を失わない、弟王子。
「それなら【魔眼の王子】の王子を愛した『神』ってやつは、
きっとお前のことだったんだな」
白い光の聖堂で、会った時の顔を思い出す。
リュティスがメリクの姿を見て、否定的な感情を見せなかった、
あれは最初で最後の時だっただろう。
「姿が例えそこに無くても、確かに存在するもの」
例え、伝わらなくても。
「あいつは気づいてなくても――確かにお前に守られてた」
メリクは深く目を閉じた。
想いは伝わらず、憎まれ続け、今も変わらない。
でもそれでも……もういいのだ。
「神のように一度も触れもせず、第一の生でお前はあいつを守り抜いた。
その事実には敬意を払うよ。俺も必ず沈黙を守るだろう」
身構えるようだったメリクの気配が和らぐ。
「……ありがとうございます」
小さく、彼は微笑った。
「話は終わりましたね。一秒も無駄に出来ないんでしょう。書き留めることしか出来ませんが、お手伝いしますよ」
側に落ちていた魔力を帯びた魔羽の飾りがついた羽ペンに腰を屈め、伸ばした手は掴まれ、強く引き寄せられた。
よろめいた体が両腕で抱き留められる。
ガチャン、とはっきり割れる音がした。
溢れ出し、石の床を伝い、浸して行く。
手をついて、身を起こそうとした身体は、まるで子供を膝に抱き上げる仕草のように引き上げられ、背が、窓枠の壁に押し付けられた。
「……、」
メリクの両腕を封じ込んで、唇を奪う。
意にそぐわないことをされているという、メリクはそういう表情は見せ眉を寄せたが、やはり強い抗いは受けなかった。
両手を離し、彼の頬に添える。
また一度の、一瞬の戯れで済むと思っていたのだろう、
しかしラムセスはっきり踏み越えて来て、もう一度唇を塞がれたメリクは今度は止めようとして咄嗟に真紅の魔術師の手首を掴んで来た。
しかしそれ以上何の動きも生まれて来ない。
彼は魔術師なのだから、こういう手籠めにされそうな時にはやりようは山ほどある。
手段はあるのだ。
でも抗う気持ちがない。
それはそうだ。
相手は死ぬ覚悟さえとうに決まっているのだから、
口づけされたくらいどうということはないだろう。
だがラムセスは、万物というものは変容の最中にあることをよく知っていた。
今見えるものが、全てではない。
窓の上部に吊っていた鳥かごの中の蝋燭が丁度掻き消えた。
十時間。
時間軸においてどこからの十時間が経ったのか、よく分からない。
だが十時間前まではここまでの心が、彼に向ってはいなかったと思う。
メリクは本当に優れた力のある魔術師だ。
特に魔術のことを語らせれば、ラムセスが過去に会って来た人間の中で、
最もたる、抜群の輝きを放った。
魔術のことを語られて、数時間で俺がこいつを欲しくなるんだから、とラムセスは月明かりのおかげで暗闇の中でも隠れなかった、微かに上気したメリクの頬に再び手の平で触れに行く。
魔術的な直感などなくても、次に起こることがメリクには容易く分かったが、どうするべきか、困惑の答えを出すには時間が無さ過ぎた。
――リュティス・ドラグノヴァと初めて会った時、
抗い難い、何かを感じた。
何かが説明もなく自分の中に入り込んで来たのに、それをおかしいとも思わず、
それどころか安堵し受け入れ、身を任せてメリクは瞬く間に支配されてしまった。
互いに【魔術師】でなかったら、そんなことは有り得ないことだったと思う。
そのメリクの感性をリュティスは忌み嫌ったが、
『彼』は。
魔力で誘いかけるということをラムセスは知っていた。
ありとあらゆる魔術を極めている彼には、それは容易いことだった。
メリクの心に言葉は響かないが、
魔力で触れれば戸惑いながらも返って来る。
そういう確信があった。
感情でも理性でもなく、
魔術師としての本能で、メリクはラムセスの予期した通り応えて来た。
ラムセスの深い口づけにも、触れ合わせるだけの口づけにも、
与えたものには素直に返して来る。
エドアルトとミルグレンを、メリクが拒絶出来なかった理由がはっきりと分かった。
彼は、傷つけられ奪われ、拒絶されることがあまりに多すぎて、与えてくれるものに対して、決して冷酷に拒絶することが出来ないのだ。
それは結局、自分の存在を否定することに繋がるから。
自分に与えたり、救おうとしたりする人間の尊さを彼は知って、信じている。
こんなに柔らかい魂を持つ人間なのに――
愛する者に悪しきものだと思われて死んで行くだけだとしたら、
それは世界の方が間違っているとラムセスは思った。
「…………一分一秒が、惜しいのでは……」
口づけの合間に逆らって来たメリクを両腕ごと、石の壁に押さえ込む。
「そうだな。お前は消滅するんだろ。なら確かに触れられる時間は一秒でも惜しいな」
言ってラムセスは噛みつくように再びメリクの唇を奪いに行った。
【誓いは
この地に流れる歌は神しか賛美しないが、
全てを手に入れることは出来ないが、
星の瞬きほどの時ならば、万物に触れることが魔術師には出来ると。
だからそこには絶望も、死も、諦めも存在しない。
星の瞬きほどなら、
神の真意にも、古の知識にも、凍り付いた心にも触れられるはずだ。
――俺はまだ、触れてもない。
愛情というより、苛立ちにも似た感情だった。
会ったこともない【
(一度も触れもせず、こんなに美しいものを勝手に消すな!)
【終】
その翡翠き彷徨い【第88話 光の方へ】 七海ポルカ @reeeeeen13
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