第32話 徴用

 通達は、二日後に正式な形で届いた。

 夕方、グレゴル神父が戸口に立っていた。いつも通り淡々としているが、今日の淡々は、どこか重い。


「……お時間、よろしいでしょうか」


 神父はそう言い、封筒を差し出した。


 朱い封蝋。

 帝国の紋章。


 その紋章の横に、小さく教会の印――聖火の小さな刻印が押されている。

 国家と教会が、同じ封筒に同居している。

 それだけで、拒否権のない紙だと分かる。

 エリアスは封蝋を割り、紙を取り出した。神父は目を伏せたまま、読み上げる。


「『北境安定化聖務(ホルティア作戦)遂行に伴い――』」


 プロパガンダ用の美しい名前。その下に続く文面は、さらに美しい。


「『秩序の周縁にある者にも、働き口と教育の機会を与えることは、帝国の慈悲である』」


 慈悲。教育。機会。ミラの胸が、一瞬だけ浮く。浮いてしまう自分が怖い。怖いのに、浮いてしまう。


「『監督役ミラは、識字訓練の成果顕著につき、教会付属施設において書記補助として徴用する』」


 徴用――という硬い言葉が、途中でさりげなく混じる。

 ここから先は、美しい言葉の皮が薄くなる。


「『以後、監督対象エリアス・ローレンとの接触を禁ず。現監督体制は別途再編する』」


 禁ず。


 その二文字は、慈悲よりよほど正直だ。

 ミラは、神父の声を聞きながら、紙に視線を落とした。すべて読める。

 読めるようになったからこそ、余計に怖い。

 神父は読み終え、静かに言った。


「……私にできることは、ありません」


 命令口調ではない。むしろ、謝罪するような淡い声だ。

 ミラは首を振った。神父を責めたいわけではない。責めても紙は変わらない。


「……わたし、行くんですか」


 自分の声が、子どもの声みたいに聞こえた。

 神父は頷く。


「明後日の朝、迎えが来ます」


 明後日。紙の上の予定が、生活の予定を飲み込む速さ。

 神父が去ったあと、部屋にはまた生活の音が戻った。

 鍋が鳴る。薪が弾ける。

 けれどその音は、紙の上で引かれた線の外側に追いやられたみたいに薄い。

 ミラは封筒の文面を指でなぞった。朱い封蝋の欠片が、指先に貼りつく。


「……エリアスさん。わたし、もっと本が読めるのかな」


 すがるような言い方だった。恐怖の中から、そんな言葉が出てしまう。

 出てしまったあとで、ミラは自分の口を両手で押さえた。

 こんなときに、期待の言葉を出すのは裏切りみたいで。

 エリアスはミラを見た。責める目ではない。

 だが、その目の奥には、長い疲れがある。


「さあな」


 淡々と言う。


「ただし、本を読むために行くわけじゃない」


 ミラの胸が沈む。

 沈んで、ようやく現実の重みが戻ってくる。


「……じゃあ、何のために」

「紙のためだ」


 エリアスはそう言った。


「紙は、人間の口より便利だからな」


 ミラには、その言葉の意味がよく分かっていた。

 言葉は冷たい。

 だがその冷たさの奥に、ミラは別のものを嗅いだ。怒りだ。

 怒鳴らない怒り。壊さないために押し殺している怒り。


「絵本は……」


 彼女は怯えるように目を伏せたまま言った。


「絵本は、持っていてください。」


 ミラはエリアスに、この日々についた名を託したかった。


 ◆


 迎えは、本当に来た。


 明後日の朝、まだ空が白くなりきらない頃。

 馬車の車輪が土を踏み、鎖の擦れる音が混じる。


 鎖――それが、慈悲の音ではないことはすぐ分かった。

 来たのは、教会の印を付けた馬車だった。

 けれど御者の隣に座るのは軍服の男だ。教会と国家は、今日も同じ馬車に同居している。

 ミラは小さな布袋に、必要最低限のものを詰めた。

 着替え。乾いたパン。鉛筆。

 鉛筆は迷ったが、最後に入れた。入れなければ、自分の手が空っぽになる気がした。

 エリアスは玄関先で、ミラの布袋を一度だけ見た。鉛筆の形が透けて見える。それを咎めない。


「いいか」


 エリアスが言う。声が低い。ミラの耳にだけ届くような声。


「向こうで、あまり読めるそぶりはするな」


 ミラが目を見開く。


「読めるそぶりをしたら、多く書かされる。書かされたら――紙が多く覚える」


 ミラは息を止めた。紙が覚える。それは怖い言い方なのに、不思議と分かってしまう。


「でも……読めないふりをしたら、殴られるかもしれません」


 ミラは小さく言った。恐怖は現実的だ。ドゥスカは殴られる。そこは紙の外の真実だ。

 エリアスは、ほんの少しだけ眉を動かした。


「……殴られても、紙に嘘を書かされるよりましだ」


 言い切ってから、彼は自分でもその言葉の残酷さに気づいた顔をした。

 だが、引き返せない。紙の前では、どちらも地獄だ。

 殴られることを予期してもなお、エリアスの言葉の招待が優しさであることを、ミラは知っていた。

 だから、小さく頷いた。頷きながら、喉の奥が熱くなる。

 泣くと見送る側が困る、と体が知っている。

 だから泣かない。

 馬車の前に立った軍服の男が、形式的に言う。


「監督役ミラ。徴用に応じよ」


 「応じよ」。なんとも紙の匂いのする言葉だ。

 ミラは一歩前へ出た。

 出た瞬間、後ろが空く。

 エリアスのいる場所が、急に遠くなる。

 馬車に乗り込む直前、ミラは振り返った。

 エリアスは、立っていた。何も言わない。言えば、紙が増えるから。

 ミラは、口を開いた。言葉をひとつだけ選ぶ。紙の外の言葉を。


「……エリアスさん。わたし、忘れません」


 何を、とは言えない。言えば、紙に書かれる。だから、曖昧なまま、でも確かなまま。

 エリアスは、ほんの少しだけ頷いた。それが返事だった。

 馬車の扉が閉まり、車輪が動き出す。ミラは背中を固くし、布袋を抱きしめた。鉛筆の感触が、掌に刺さる。


 生活の火が、遠ざかっていく。


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戦犯と少女の、国境でいちばん静かな戦争 弥生 倫 @kenny_flanky

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