第31話 「決められる側」

 (聖イルミナ暦一〇三六年 六の月末)


 エリアスは、家の中でミラが紙を触る音を聞いていた。

 鉛筆の先が、乾いた紙をこする音。その音が、生活の音であるうちはいい。だが、ある日それが罪の音に変わることを、彼は知っている。


 それでもエリアスは、ミラに読み書きを教える手を止めなかった。

 止めた瞬間、彼女はまた「紙の外」に追い出される。紙の外にいる者は、紙で殴られる。


「……精霊は言いました。『あなた方の名を託してください。橋の礎を、その名が固めてくれるでしょう。』」


 ミラがすらすらと絵本を読む。


「よし」


 褒め言葉はそれだけ。

 ミラの見込みの速さに、驚きを隠すので精一杯だったからだ。

 けれどミラは、その一言で肩の力を抜く。


 ――その瞬間だった。


 戸を叩く音がした。控えめではない。だが、怒鳴り声でもない。

 「開けろ」と言わないのに、開けない選択肢がない叩き方。

 ミラの手が止まる。鉛筆の先が、紙の上で小さな点を作った。

 エリアスは立ち上がり、玄関へ向かった。床板のきしむ場所を避ける癖が、今日はやけに丁寧に出る。


 扉を開けると、憲兵が二人立っていた。軍服の色は地味で、銃は肩に。その一人は、胸元に小さな紙束を差し込み、もう一人は周囲を見回している。


「戦犯エリアス・ローレン」


 呼び捨ての声。紙の上にそう書かれているから、現実でもそう呼ぶ。


「監督役ミラも同席させろ」


 ミラの名前が出た瞬間、彼女の背中が小さく固まる。名前を紙で呼ばれることに、まだ慣れていない。

 エリアスは頷き、ミラに目線で合図した。ミラは慌てて立ち上がり、上着の裾を押さえた。自分の手が震えているのが分かる。隠すように、袖口を握る。

 居間に通された憲兵のうち一人が、紙束を机の上に置いた。紙の匂いが、急に部屋の空気を変える。


「九の月二十日。旧監視塔周辺で、不審な二名を目撃したという報告がある」


 淡々と読み上げる声は、まるで祈祷文みたいに滑らかだった。紙の上で一度整えられた言葉は、人の体温を失っている。


「目撃者は憲兵斥候。距離はあるが、戦犯ローレンとドゥスカ少女ミラに相違なし、と記録されている」


 記録。その二文字が、ミラの喉の奥に引っかかる。

 エリアスは、表情を変えなかった。変えない顔を、戦場で身につけた。


「散歩だ」


 短く言う。

憲兵は眉も動かさず、紙に視線を落としたまま続ける。


「なぜ旧監視塔へ向かった」

「向かっていない。丘の途中で引き返した」

「理由は」

「風が強かった。ミラが寒がった」


 ミラが息を飲む。「寒がった」――それは、確かに本当の一部だ。

 本当の一部は、嘘を守る。紙の上でも、現実でも。

 憲兵はミラに視線を移した。


「ドゥスカの女。事実か」


 ミラは、瞬きの回数を忘れそうになりながら頷いた。


「……は、はい。寒かったです」


 声が掠れる。エリアスが視線をこちらに寄越さないのが、ありがたい。

見られたら、嘘が割れる気がした。

 憲兵は、そこで話を畳みにかかった。追及が浅い。引っかかるほど浅い。


「戦犯の行動記録に、不審点として付記する」


 紙束の端を、指で軽く叩く。その叩き方が、刃物の柄を叩くみたいに乾いていた。


「――次。監督役ミラ」


 空気が一段冷える。

 ミラは背筋を伸ばした。伸ばしたところで、彼女の身分が上がるわけではない。

 それでも、縮こまってはいけない気がした。縮こまると、もっと簡単に運ばれる。


「お前は識字ができると聞いている」


 憲兵の口調は事務的だったが、その「できる」には、妙な引っかかりがある。

 できるはずがない、という前提が、どこかに混じっている。

 ミラは喉を鳴らして頷いた。


「……少しだけ」

「誰に教わった」


 ミラの視線が一瞬だけ揺れる。

 エリアスは何も言わない。沈黙で、彼女を守ろうとする。


「……エリアスさんが」


 ミラが答えると、憲兵は鼻で笑った。


「戦犯が、ドゥスカに文字を教える。奇妙な話だ」


 面白がっているのは、話ではなく、支配の形だ。紙が増えるのが楽しいタイプの人間の声。

 憲兵は紙束を一枚めくった。そこに書かれている何かを確認し、淡々と告げる。


「上から通達が来る。監督役ミラは、近々移送される」


その言葉が、ミラの胸を突いた。


「え……」


 声が勝手に漏れる。

 エリアスの目が、ほんの少しだけ細くなる。彼は質問しない。質問の形は、相手に主導権を渡す。

 憲兵は最後に、紙束の上に朱肉の跡が見える封筒を置いた。


「これは正式な通達だ。後ほど司祭経由で手続きが回る。……以上」


 それだけ言って立ち上がる。紙を置いたまま、紙の匂いだけを残して出ていく。

 扉が閉まったあと、部屋の中はしばらく音がなかった。鍋の中で湯が小さく鳴り、薪がぱちりと弾ける。その生活の音が、急に遠い。


「……移送って」


 ミラが言う。問いではなく、言葉を確かめるみたいに。

 エリアスは封筒を手に取った。紙の角が、指先に硬い。


「紙が決める」


 それだけ言って、封を切らない。切らないまま、封筒を机の上に置いた。

 ミラはそれを見つめた。自分が、紙に「決められる側」であることを、改めて思い知らされる。

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