13年目の結婚記念日に

烏川 ハル

13年目の結婚記念日に

   

 駅前へと続く大通りは、夜でも明るかった。

 等間隔に設置された街灯だけでなく、商店や民家の窓から漏れる光もある。まだクリスマスには早い時期なのに、それらしきイルミネーションが既に飾られているところもあった。

 駅に近づくにつれて、通行人の姿も増えていく。活気あふれる賑わいの空気が、車の中からでも感じられた。

 事故を起こしたら大変だ。私は慎重な運転で、駅前広場のロータリーに青いセダンを乗り入れていく。


 バス停とタクシー乗り場の中間あたりに車を停めると、一人の女性が駆け寄ってきた。

 艶やかな黒髪はポニーテール風に後ろで束ねて、赤いロングコートを羽織っている。スレンダーな体つきも、面長な顔立ちも、私の好みにどんぴしゃりだった。

 どうやら私は、ぽかんとした表情で女性を眺めていたらしい。

 助手席のドアを開けながら、彼女が笑いかけてくる。

「どうしたのよ、そんな鳩が豆鉄砲くらったみたいに……」

 けばけばしくない程度に、きちんと化粧を施した顔。良く見れば、妻の頼子だった。

 ちらりと彼女は視線を下げて、自身の姿を確認してから、シートに座る。

「……そこまで驚くなんてね。せっかくだから、たまにはお洒落してきたのよ。ほら、独身だった頃みたいな格好でしょう?」


「うん、若い頃の君を思い出したよ」

 妻の言葉に同意しておく。

 実際には、彼女の姿を見て思い浮かべたのは会社の若い部下、綾川早苗のことだった。一瞬「手違いで早苗が来たのか?」と思ったほどだ。

 もちろん、そんな考えは妻には内緒だ。ましてや、これも妻には言えないが……。

 心の中では、密かに納得していた。ああ、私が早苗と不倫しているのは、彼女が昔の頼子と似ているからなのか、と。

   

――――――――――――

   

「本当に、なんだか若い頃のデートみたいね!」

 走り出した車の中でも、妻はうきうきしていた。

「家から一緒に出かけるんじゃなくて、わざわざ駅前で待ち合わせなんて……。しかも、この車! レンタカーでしょう? あなたが昔良く乗ってたのと同じ、青い車だわ!」

 妻には細かい車種まではわからないから、昔と同じ車に見えたらしい。

 これは都合が良かった。わざわざレンタカーを借りた本当の理由を、しかも借りる際に身分まで偽っているのを、妻に悟られるわけにはいかないからだ。


「うん、今日はデートだからね。ほら、結婚記念日だから」

「そう、それ! そういう記念日、あなたは無頓着なタイプだから、今回は驚いたわ。しかも今年って別に節目じゃなくて、13年目の結婚記念日でしょう?」

 そう、もう13年もこの女と一緒に暮らしているのだ。「女房と畳は新しい方が良い」ということわざを、ひしひしと実感してしまう。

「うん、たまには良いだろう? こういうのも」

「そうね。でも、どういう風の吹き回しかしら。やっぱり、あれなの? まとまったお金が懐に入ったから、少しは贅沢を……みたいな?」

「うん、まあ、それもあるかな」

 夫婦で共同購入した宝くじで、かなりの金額が当たったこと。

 確かにそれは、今日の行動に繋がる大きな動機になっていた。新しい幸せをスタートさせる資金として、私はその大金を独占したいのだ。


「それより、頼子。今日は本当に大丈夫だったのかい? いつもなら火曜日はスーパーでパートだろう?」

 私の方から話題を変えると、妻は軽く苦笑する。

「大丈夫よ、しょせんパートだからね。今週だけ、お休みもらったわ。ちょっと恥ずかしいから、結婚記念日のデートなんて言わなかったけど……」

 私は心の中で、小さく「よしっ!」とガッツポーズ。

 頼子の性格上、そこまで他人に具体的な説明はしないだろうと期待していたのだ。

 もしも後々「その夜は二人でデートだったのでは?」と追求されても否定できるよう、私の方はアリバイを用意してあるけれど、その心配もないのであれば、それが一番だった。

「……私よりも、あなたの方よ。私こそ『それより今日は本当に大丈夫?』と聞きたいわ。あなた、いつも火曜日は残業でしょう? 忙しいんじゃないの?」


「ああ、その点も心配しないでくれ。ちょうど今週は、それほど仕事が溜まらず定時に帰れるのが、あらかじめわかってたからね」

 妻にはそう返すが、そもそも毎週火曜の残業が嘘だった。いつも残業で遅くなったことにして、実はその時間、早苗とホテルで過ごしていたのだ。

 しかも今夜は逆に、同僚たちには「一人で残業してから帰る」と言ってあるし、会社のシステム上も私の残業が記録されている。そのようにタイムカードに細工しておいたからだ。

 いわば妻でなく会社に対して嘘をついた形だが、これこそ重要なアリバイ工作だった。

   

――――――――――――

   

 町の東端付近にあるレストラン街。

 その一帯を過ぎると、大通りの街灯は数が少なくなる。建物も疎らになり、そこから漏れる明かりも減った分、かなり薄暗い。道路脇には緑の木々が目立つようになってきたが、その「緑」の色もわかりにくいほどだった。

 見ていて楽しい夜景ではないだろうに、それでも妻の頼子は微笑みながら、窓の外へ視線を向けていた。

 その姿勢のまま、問いかけるような口調で呟く。

「これから行くレストラン、隣町にあるのよね?」


「うん、そうだよ。街中というより郊外だから、厳密には隣町に入る手前かな。それも、このまま大通りを真っすぐ行くより、途中で山道に入った方が行きやすいらしい」

「山道でも何でも構わないけど……。夜だから運転、気をつけてね」

「大丈夫さ。山道と言っても、そんな真っ暗な道を通るような立地じゃないはずだし……。だって、ディナーが評判のレストランだぜ? みんな夜に行くお店だからね」

 割と手頃な値段でイタリアンのコース料理が食べられるレストラン。頼子には、そう伝えてあった。


「会社の同僚から教えてもらったお店……。そう言ってたわね?」

「そう、田中ってやつ。ほら、覚えてるかな? 前に一度、うちに来たこともあっただろう?」

「ああ、あの田中さんね……」

 適当な相槌だ。この口ぶりでは、おそらく彼女は、田中の顔が頭に浮かんでいないのだろう。

 ならばこれ以上、田中についての話は続けないだろうし、こちらとしても都合が良かった。田中という同僚が存在するのも、彼を家に招いたことがあるのも本当だが、彼に聞いたレストランというのは、真っ赤な嘘だったからだ。


「……まあ情報ソースはともかく、あなたが決めたお店なら確実よね。そういうセンス、あなたは昔から信用できたもの」

 懐かしそうに、頼子が言う。

 まだお互いに独身でよくデートしていた当時を、思い出しているようだ。確かに彼女はあの頃、私のレストラン選びのセンスを、はっきりと口に出して褒めていた。

 その手のセンスは最近でも、不倫相手の早苗から褒められる部分だから、本当に私の長所の一つなのだろう。

 自然に頬を緩めながら、私も言葉を返す。

「ああ、そうだね。期待してくれて構わないよ、これから行くところは」

   

――――――――――――

   

 すっかり彼女は、その気になっていたのだろう。

 寂しい山道へと車が曲がった時も、予定通りと思ったらしく、何も言わなかった。人気のない山中で車が停まった時には、さすがに「どうしたの?」と反応したが、

「何だろう、エンジントラブルかな? ちょっと様子、見てみるから……。頼子は、そこで待っててくれ」

 と言えば、それだけで大人しくなる。

 私が車の工具を取り出しても、疑う素振りは全くなかった。まさかそれで殴り殺されるとは思ってもみなかったらしい。


 だから殺害自体は、あっけないほど容易だった。

 むしろ大変だったのは、死体を山に埋めること。人ひとり埋める分の穴を掘るのは、思った以上の重労働だったのだ。


「ふう……」

 全て終わらせた時には、すっかり汗だく。まさに、滝のような汗だった。

 がくがくと足が震えているのは、慣れない穴掘りが足腰に来たのだろうか。

 そう思いながら額の汗を拭ったところで、手もぶるぶると震えていることに気づく。

 ああ、これは精神的な動揺だ。いくら「あっけない」と感じたとはいえ、やはり人を殺すという行為は、心理的に大きな負担となるようだ。

「こんなに震える手足で、車の運転なんて……。帰りは、もっと慎重に運転しないと危ないよな」

 自分に言い聞かせる意味で、口に出しながら……。

 私は再び青いセダンに乗り込み、エンジンをスタートさせるのだった。

   

――――――――――――

   

 車を返却して、家まで帰り着いた時もまだ、手足に若干の震えが残っていた。

 一階の洗面所へ駆け込み、ごしごしと手を洗う。返り血は浴びなかったし、赤黒く汚れた部分もないけれど、それでも見えない穢れがついているように感じてしまうのだ。


 こすり過ぎて肌が痛くほど、しばらく洗い続けていると……。

 がちゃりと玄関の扉が開く音。続いて、朗らかな声も聞こえてくる。

「ただいま!」


 驚いて廊下に顔を出せば、家に入ってきたのは、見慣れた女性だ。

 ぼさぼさの髪に、化粧っ気の全くない顔。よれよれの薄茶色いパーカーを羽織った、いつもの頼子の姿があった。

「どうしたのよ、そんな鳩が豆鉄砲くらったみたいに……。そこまで驚くことないでしょう? 確かに私、いつもより少し早く帰ってきたけど……」

 彼女が投げかけてきたのは、既視感のある言葉。ただし最初だけであり、途中からは全く異なっていた。

「……でもパートだから、たまにはこれくらいの時もあるのよ。それより、私の方こそ驚いたわ。あなたの方が先に帰ってるなんてね。あなたも今日は早かったの? 凄い偶然ね!」

 おかしそうに、けらけらと頼子が笑う。


 彼女の言い分を信じるならば、頼子はいつも通り、火曜日のパートに行っていたことになるが、それが本当だとしたら……。

 いや、実際こうして妻が生きている以上、本当なのだろう。しかし、だとしたら今晩、車に乗せたあの女は誰だったのか。

 私は一体、誰を殺してしまったのだろう?




(「13年目の結婚記念日に」完)

   

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