第五章 明治の神仏分離——セットの解体と存続

■各神の個別対応


 明治元年(一八六八年)、新政府は神仏分離令を発布した。神道と仏教を峻別し、神社から仏教色を排除する政策である。

 これは七福神にとって、存亡の危機だった。なにしろ七福神の大半は仏教由来の「天部」であり、神道の神ではない。神仏分離を徹底すれば、七福神というセットは成り立たなくなる。

 結果として、七福神は「個別対応」を迫られた。

 弁財天は、神道の市杵島姫命いちきしまひめのみことと同一視されていたため、神社では祭神を市杵島姫命に「戻す」形で対応した。厳島神社や江島神社などがその例である。ただし、弁財天の名は民間に根強く残り、今日でも「弁天様」として親しまれている。

 大黒天も同様に、大国主命と習合していたため、神道側に吸収されやすかった。もともと「大黒」と「大国」の音の一致から始まった習合だが、明治以降は「大国主命の別名」として整理された。

 恵比寿は、もともと蛭子命または事代主神という神道の神と同一視されていたため、神仏分離の影響は比較的小さかった。

 毘沙門天、布袋、福禄寿、寿老人は、仏教寺院に残った。これらの神はもともと神社で祀られることが少なかったため、分離の必要がなかったのだ。



■「三社四寺」の巡礼


 こうして、七福神巡りは神社と寺院が混在する奇妙な形態となった。

 典型的な七福神巡りのコースは、三つの神社と四つの寺院を巡る「三社四寺」の構成になっている。恵比寿・大黒天・弁財天は神社に、毘沙門天・布袋・福禄寿・寿老人は寺院に祀られているのが一般的だ。

 神仏分離という近代国家の宗教政策と、民間信仰の「福を求める心」が折り合った結果が、この混成の巡礼形態である。

 七福神信仰は、明治の荒波を「個別対応」と「混成」によって乗り越えた。公式がないことの強みが、ここでも発揮されたといえるだろう。


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