第二章 「七」という数字の魔力

■仏典の「七難七福」


 なぜ福の神は「七人」なのか。

 直接の典拠とされるのは、仏典『仁王経』にある「七難即滅、七福即生」という語句である。七つの災難が消滅し、七つの福徳が生じる——この仏教語が、福神の数を「七」に定める根拠となった。

 ただし、この語句が具体的にどの七つの難・福を指すのかは諸説あり、明確ではない。「七」という数字自体に聖性があるとする東アジアの数秘思想が背景にあるのだろう。



■竹林の七賢への憧れ


 七福神の成立に決定的な影響を与えたのは、中国の「竹林の七賢」である。

 竹林の七賢とは、三世紀の中国・魏晋時代に、俗世を離れて竹林に集い清談を交わしたとされる七人の知識人のこと。阮籍、嵆康けいこう、山濤、劉伶、阮咸、向秀、王戎の七人で、脱俗・風流・隠逸の象徴として後世に理想化された。

 室町時代、禅宗の隆盛とともに中国文化への憧憬が高まると、竹林の七賢を描いた水墨画が禅僧や茶人の間で流行した。銀閣寺に代表される東山文化の時代である。

 この「七人一組」の構図を真似て、日本でも「福の神を七人集めて描こう」という発想が生まれた。七福神の図像は、竹林の七賢図のパロディとして始まったのだ。

 当初、この「七福神図」を楽しんだのは、禅僧・公家・武家など、教養ある上層階級に限られていた。掛軸や屏風として鑑賞される、いわば「ハイカルチャー」だったのである。



■応永二十七年の風流行列


 記録に残る最古の「七福神」は、応永二十七年(一四二〇年)に京都で行われた風流行列である。

 風流ふりゅうとは、室町時代に流行した仮装行列・パフォーマンスのこと。派手な衣装や山車を仕立てて街を練り歩く、一種の祝祭芸能だ。

 この年の風流行列に「七福神」が登場したという記録がある。つまり、十五世紀初頭には、七福神という概念が京都の都市民の間で共有されていたことになる。

 ただし、この時点でメンバーが現在の七人に固定されていたかどうかは定かではない。

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