第2話

 2

 外見そとみよりも、中は綺麗だった。といっても多少だけど。

 僕は遠野の手を借りながら一段、また一段とコンクリートの階段を上がる。足音が反響しては消えていく。


「……スイ」

「どうかした?」


 僕らは『三〇三』の部屋の前に来ていた。五階あるうちの三階、しかも廊下の真ん中の部屋という奇妙な場所を選んだのは遠野だった。


「チャイムかノックってしたほうがいいか?」


 この霊感のある幼馴染の、ちょっとズレた質問は今に始まったことではない。なまじ人間だったモノが視えるから気を遣うのだろう。無遠慮にドアを開けないのは遠野らしい。


「ノックかな。チャイム、壊れてるでしょ」


 おー、と遠野は短く相槌を打った。


 ――コン、コン、コン。


 静まりかえった廊下にノックの音が響く。僕はそんな日常の動作にすら肩をびくつかせた。明かりが頼りないせいで、神経が過敏になっているんだろう。深呼吸をひとつする。かび臭くて気が滅入りそうになった。


「返事は、ないな」

「あったら困るな」


 軽口を叩き合いながら、鉄のドアを開ける。

 籠った空気が鼻腔をついた。短い廊下の先にはリビングがあった。左手に二つドアがある。感覚的にトイレとかお風呂とかだろう。

 遠野は上がり框と周辺の床を何度か踏み、腐ってないことを確認すると、部屋に入った。すたすたとまるで勝手知ったる我が家のように歩いていく。

 僕が、遠野が、歩を進めるたびにフローリングの廊下がきしむ。霊的な怖さよりも、どちらかといえば崩落の恐怖のほうが僕の頭を占めていた。

 リビングの中心についたとき、


「赤ん坊とさ、女の二人暮らしだったんだよ」


 そう突然に遠野が言った。なんのことと問う前に、気づく。遠野の視た幽霊のことだ。


「シングルマザーだった。海の見える場所で心機一転しようって考えたてた。でもここの団地オンボロじゃん? 赤子の泣き声なんて壁を貫通するんだよ」


 僕は遠野の後頭部しか見えない。仮にこちらを向いていたとしても、月明かりもないので表情まではうかがえなかっただろう。


「だからさ」


 ――ドンッ。


 予期せぬ鈍い音に僕は跳びあがった。遠野が壁を叩いたのだ。


「こうやって毎晩、ずっとずっとずっと、両隣の人から壁を叩かれてた。内からは赤子の声が、外からは苦情が、それぞれ刃のように刺してくる。それでも三か月は耐えた。夜泣きが終わるまでの辛抱だって――」


 でもね、と遠野は続ける。


「終わんなかった、終わりが見えなかった。明日も明後日も一か月後も一年後も、自分は針のむしろの心地で生きていかなきゃならないって確信したんだ」


 遠野の、男にしては細い指が、まっすぐに前を示す。目で追った先には、窓があった。明るければきっと海が見えたんだろう。今は得体のしれない闇しかない。


「……だから、殺した」遠野は躊躇いもなくリビングを横断し、窓枠に手を掛けた。「ここから」

「――」


 僕は生唾を飲んだ。一人で追い詰められた末、決断したのは殺人だった。……赤ちゃんを、ベランダから、落とした。

 そこではっとする。

 遠野が赤ちゃんの泣き声がすると話したとき、彼は だと言っていた。あれは、こういうことだったのか。


「ぐしゃって、なんか潰れる音がした。赤ん坊なんてどうでもよかった。ただ騒音から解放されたんだって思った、これでもうゆっくり寝れると本気でそう信じた」


 ぎぃ、と床がきしむ。


「寝て、起きて、立て続けにチャイムが鳴っていることに気付いた。夕方だった。沈んでく太陽が綺麗でさ」


 ぎぃ、と床がきしんだ。


「子供が起きるでしょ、って怒鳴ろうとした。でもしないんだ、泣き声も、笑い声もしない。自分の隣には空っぽのベビーベッドがあった。そこで、気づいた。自分がしたことに」


 ――ぎぃ、と音がする。


「……手続きで忙しくてさ、引っ越しの荷ほどき、できてなかったんだ。手元にあったのは延長コードだけ。それを」


 遠野は天井を指し示した。穴が、開いている。


「無我夢中だった。台に乗ってさ、天井を殴って穴開けて、頑丈そうな木にコードを通して、輪っかを作って、そのまま首をかけた」


 ――ぎぃ、ぎぃ、ぎぃ。

 その音は、振り子時計のように一定だった。

 その音は、僕のすぐ背後からする。

 その音は、首を吊った音だ――

 心臓が早鐘のように脈打っている。口をふさいだ。そこから音が漏れているような気がしたから。僕という存在を極限まで押し殺す。


「利き足で台を蹴る、支えがなくなって自重でコードが首に食い込む、痛くて苦しいからもがく、さらに深く食い込む。爪が折れた、はがれた、でも苦しいから、生きたいから抵抗する。そうしているうちに目の前が白くなってった!」


 僕は耳をふさいだ。一人の母親が死んでいく様子を、背後からのきしむ音を、これ以上聞きたくなかった。

「ふ、ふふ――」


 笑い声がした。可笑しくて仕方がないといった笑い声が。

 

「――自殺するなんて馬鹿だよな」

「……え?」


 思いもよらぬ一言に、僕は顔を上げた。


「自分が押しつぶされて死ぬぐらいなら、最初から殺さなければいい」


 僕はカッと顔に熱が集まるのを感じた。この人は、死にたくて死んだわけじゃない。家にも外にも味方がいなくて、ただ苦しくて仕方がなかっただけなのに!


「遠野、そんな言い方――!」

「スイ」


 いつのまにか遠野はこちらを向いていた。

 ……まただ。またこの幼馴染は、僕を見ているようで見ていない。あの遠い目をしている。


「その優しさ、生きてる人間にわけてやれ。停滞した死んだ人間に使うなんてもったいないぞ」


 僕は子どもなんていない、ただの高校二年生の男子高校生だ。赤ちゃんの声と近隣住民の心無い苦情に板挟みになったこの母親の気持ちは一ミリもわかってやれない。

 それでも、僕は遠野の言葉に、反論したかった。


「この人は、悪くないよ」


 かろうじて僕はそれだけを言う。状況が悪かっただけで殺す気なんてなかったんだ。この人だって子どもの成長をずっと見ていたかったはずなんだ。きっとそうだと信じている。


「……」あからさまに遠野はため息をついた。「ばーか、甘ちゃん、泣き虫」

「うっさい」


 涙声は誤魔化せなかった。ただひたすらに僕は、ここでかつて暮らしていた母子が安らかに過ごせるようにと祈った。

 ――遠野は、そんな僕を見て、何を思っていたんだろう。


「待たせて悪い。行こう」


 僕はうつむいたまま、右足を引きずりながら足早にリビングを抜け、廊下を歩いた。背後から遠野が追いかけてくる。なんとなく顔を合わせられなかった。

 ドアを閉める瞬間、リビングに女の人が佇んでいた気がした――


 3

「……スイはあたしんとこ来なさい。それでもって青山は遠野を殴りなさい」

「なんでさ!?」

「イエス・マム。うーし、歯ぁ食いしばれ、遠野」

「なんでさ!?」


 涙のあとが残っていたらしい。合流するや否や、遠野は青山と四島さんに詰問されていた。

 僕は半ば放心状態で団地を見上げていた。三〇三号室の窓は、潮風のせいかすべて割れていた。……あの部屋の中にいたとき無風で、なんの音もしなかった。振り返れば部屋に入った瞬間からおかしかったのだ。

 深呼吸をひとつした。海のにおいがする、虫の合奏が聞こえる。

 僕はここでようやく、あの部屋から出てきたんだと実感した。


「――スイ、スーイ」

「うわっ!」


 いつの間にか遠野が僕の肩に手を回していた。


「おまえが庇ってくんなかったから青山に殴られた―、いてーんだけどー!」

「あぁ、うん、そうだね?」

「スイちゃんが冷たい!」


 ぐちぐちと言っていたが、青山と四島さんの「早く帰るぞー」の声で止まった。揃って、前に二人を追いかけて、歩き出す。

 不意に遠野が立ち止まり――なぜか、僕を抱き寄せた。突然のことに身体がこわばる。視界が一面、黒くなった。長時間外にいたのに、遠野からはまったく汗のにおいがしなかった。


「は、えっ!?」

「――やんない」


 混乱する僕の頭上に、遠野の声が降ってきた。

 普段の軽薄さは鳴りを潜めていた。代わりにあるのは威圧感。


「スイはやんない。あんた死人になんかもったいねーの、こいつは」





 長い長い道を戻り、駅に辿り着いた僕らは青山と四島さんと別れた。

 二人の背中が見えなくなったころ、何も言わずに遠野は僕を背負った。足を庇っているのがバレていたらしい。


「……ごめん、遠野。重いよね」

「テンシノヨウニ カルイヨー」

「棒読みすぎる」


 遠野はふー、と息を吐くと「スイ」と僕を呼んだ。


「うん?」

「幽霊相手に優しくすんなよ。さっきみたいに寄ってくる」

「……うん」

「俺だっていつも、おまえを助けられるわけじゃないんだ」

「なんだ、ずっと一緒にいてくれないの」

「えー、俺今プロポーズされた?」


 へらへらと遠野は笑う。

 わかっては、いるのだ。こうして死者に踏み込みすぎることで彼に迷惑をかけることも。でもそれは半分は衝動、もう半分は――


(きみをつなぎとめるため、なんて言ったら怒るかな)


 腕に力を込める。

 遠野には、顔以外の全身に蛇が這いずり回ったあとのような痣がある。タートルネックはそのせいだ。

 生まれつきだというその痣は、僕を事故から助けた日を境として一段階、濃くなった。

 もしも完全に見えるようになったら――彼が、どこかに行ってしまいそうな、そんな予感があった。

 ――どうして、そんな痣があるの?

 ――どうして、濃くなったの?

 ありったけの疑問をぶつけたら、きっと遠野はへらりと笑って逃げるだろう。僕から、この街から。

 だから、言わない。その手を離さないため、離れてもすぐに気づけるように、僕はきみにありったけの迷惑をかける。それが、命綱になる信じて。


「スイ?」


 遠野の体温が伝わってくる。彼は、まだ、ここにいる。今の僕にはそれで十分だった。

 僕の家の前で、遠野は僕を下ろした。電気はついていない。こっそり出てきたのだから当たり前だ。彼は僕に清めの塩を投げてよこすと、へらへらと、あの軽薄そうな笑顔を浮かべた。


「じゃーな。また月曜日」

「うん。ありがとう」


 遠野の顔を見やった。電灯の明かりで、はっきりと彼が見えることに安堵しながら僕は、


「また、月曜日」


 とって、彼に手を振った。


【Aヶ丘団地 了】

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Aヶ丘団地 みかん @nnn1201

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