第3話 地平線の裏

 電車が停まったとき、ドアは開かなかった。

 代わりに床が静かに割れ、私たち乗客は一枚のページのようにめくれて、表と裏が反転した。


 そこは、昼も夜もない世界だった。

 空は一枚の古びた黒板で、そこに白い線で“遠く”が描かれている。

 風は存在せず、代わりに紙のような空気がめくれる音がした。


 足元には道が一本だけ伸びている。

 だが道は水平ではなく、常にゆるやかに折りたたまれ、視界の端で自分自身の足首に繋がっていた。

 つまり、歩けば歩くほど自分の影の背中に近づく。


「あなた、もう一度会いましたね」

 振り向くと、あの屋台の主人──“眠っていた頃の私”が立っていた。

 今回は、片方の手に壊れた砂時計を持ち、もう片方の手には、何もない。


「ここは、忘れた記憶が過ごしている場所です」

 主人はそう言い、砂時計を逆さにする。

 しかし中から落ちてくるのは砂ではなく、幼いころの声だった。

 泣き声や笑い声が床に散り、やがて文字になって消えていく。


 私は尋ねる。

「これを思い出せば、置き忘れたものが見つかるの?」

 主人は首を横に振る。

「ここで思い出したものは、現実では存在しなかったことになる。

 だから、選びなさい──“思い出す”か、“生きる”か」


 遠くで電車の汽笛が鳴った。

 それは私を呼ぶ音ではなく、私の影を呼ぶ音だった。

 影はゆっくりと立ち上がり、私の肩に触れる。

 その手は、やけに温かかった。


 次の瞬間、黒板の空に書かれた“遠く”の線がほどけ、空ごと私たちはまた裏返った。

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