004

 明日香を初めて見たのは、大学の講義中だった。

 大講義室の後方、僕の前の席に座った彼女の第一印象は、「すごく変な女」だった。

 講義が始まるなり、彼女はノートに一心不乱にペンを走らせていた。

 最初は熱心な学生なのかと思ったが、すぐに違和感を覚えた。メモを取っているにしては、教授の話す内容と、ペンを動かすタイミングがまったく合っていない。

 何をしているのだろうか。

 気になって、そっと背中越しにノートを覗いた。

「……え」

 思わず声が漏れたが、彼女は気づかないほど集中しているようだった。

 ノートいっぱいに描かれていたのは、猫の絵だった。それも、気まぐれな落書きとは明らかに違う、異様な熱量を帯びた猫ばかりだった。

 僕は、しばらく彼女の手元から目を離せなくなった。

 絵心のない自分から見れば十分に上手かったが、彼女自身は納得していないらしく、何度も消しては描き直していた。そのせいで、ところどころ不自然に歪んでいる。

 それなのに、描き直されるたびに、猫は少しずつ生々しさを増していくように見えた。形としての完成度が下がるほど、存在感だけが強くなる。そんな奇妙な絵だった。

 結局、講義が終わるまで、僕は一度も前を向かなかった。

 次の週も、その次の週も、彼女は同じように猫を描いていた。

 僕は自然と彼女の後ろの席に座るようになり、毎回その様子を眺めた。理由は分からないが、それはいつの間にか、僕にとって毎週の楽しみになっていた。

 ある日のことだった。

 いつものように彼女のノートを覗いた瞬間、僕ははっきりとした違和感を覚えた。

 絵が、ひどく整っていた。

 迷いがなく、修正の跡もほとんどない。一筆書きでもしたかのように、全体のバランスが取れている。技術的には、明らかにこちらのほうが完成度は高かった。

 ただ、そこには、以前感じていた熱量がなかった。

 講義が終わると、彼女はすぐに立ち上がり、教室を出ようとした。

 考えるより先に、僕は声をかけていた。

「あの、すみません。違っていたら申し訳ないんですけど」

 彼女が振り返る。

 そのとき初めて、正面から彼女の顔を見た。

 ――猫みたいだな、と思った。


「もしかして……猫、亡くなったんですか?」


 それが、明日香との最初の会話だった。


 ***


「なるほど。婚約者を交通事故で亡くされたのですね。ご愁傷様です」

 青木と名乗った精神科医は、ひどく淡々とした口調だった。

 パソコンの画面から目を離すこともなく、やけに早いタイピング音だけが、狭い診察室に響いている。

「体調はいかがですか。睡眠は取れていますか」

「ええ。睡眠時間はそれなりに」

「食欲は?」

「問題ありません」

「仕事の能率が落ちた、判断力が鈍ったなどの自覚は?」

「特には……」

「なるほど。身体的な機能に大きな影響は出ていない、と」

 医師の言葉はあまりにも事務的で、僕の返答によって、彼の頭の中のフローチャートが順調に進んでいくのが分かった。仰々しい心理テストを受けさせられているようで、正直、あまり気分はよくなかった。

「でしたら、現時点では深刻な問題とは言えません。積極的な薬物治療も不要でしょう」

「そんなはずはないと思うんですが」

「なぜそう思います?」

「……猫が、彼女の姿に見えるんです」

「猫?」

「はい。街にいる猫が、全部。彼女の姿に見えるんです。これは異常ですよね?」

「……ふぅ」

 青木は、心底つまらなそうに息を吐いた。

「おそらくですが、それは気のせいです」

「……は?」

「発言は理路整然としているし、ご自身の状態も正確に説明できている。生活機能にも問題はない。精神科に来る患者さんとしては、むしろ珍しいくらいです」

「ですが」

「これは私個人の見解ですが――あなたは、その方の死を乗り越えてしまったことに、うしろめたさを感じているのでは?」

 青木は画面から目を離さずに言った。

「苦しんでいない自分を、許せていないだけです。わざわざ自分から苦しみに行く必要はありません」


 タイピング音が続いている。まだ書くことがあるのだろうか。

 彼のなかでは僕の症状についてはもう決着がついていて、別の仕事をしているのかもしれなかった。


「あなたは、社会生活を送るうえで非常に優秀です。トラウマは必須ではありません。捨てられるなら、捨ててしまったほうが楽でしょう」

「……気のせいなんかじゃありません」


 少しだけ、語気が強くなった。

 それは感情によるものではなく、無礼なことを言われたことに対する相応の反応が出ただけのように思われた。


「……分かりました」


 青木は、ほんの一瞬だけ考える素振りを見せた。


「では、念のため睡眠薬を出しておきましょう。ご本人が自覚しない程度に、眠りが浅くなっている可能性もありますから」


 それで話は終わりだった。

 僕は少しだけ会釈して、診察室を出た。背中越しに「お大事に」という形式的なセリフが聞こえた。


 薬局で睡眠薬を受け取り、家に帰る途中、僕はいつもの公園に立ち寄った。

 やはり、そこには明日香がいた。


 そっと近づき、頭をなでた。いつものように、心地よさそうな顔をしている。

 我慢できなくなって、強く抱きしめようとした。が、僕の両腕は空を切った。

 彼女の身体があるべき場所には、なにもなかった。


 明日香は、遠くに逃げ去っていった。

 僕は、一人で家に帰った。

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