002

 明日香は、僕の婚約者だった。

 交通事故で亡くならなければ、今ごろは結婚式を挙げているはずの時期だったと思う。


 明日香は感覚に身をゆだねて突っ走るタイプで、式場を決める段階から、僕はずいぶん振り回された。


「ここにする。絶対ここがいい!」

「いや、他の会場とも比較しないと。料金とか演出とか――」

「ビビビッときたの。ここで私がドレス着て歩いてる姿が見えた!」


 このあと回る予定だった別の会場のリストと、自分なりにまとめた各式場のメリット・デメリット表を見せて説得しようとすると、明日香は屈託なく笑った。


「任せて。私が幸せにしてあげるから!」


 猫が明日香に見えるようになってから、約一か月が経った。

 僕はすっかり、裸の彼女が街中にいる光景に慣れてしまっていた。


 休日には、野良猫が集まる公園に足を運び、彼女たちを観察するようにさえなっていた。

 よく見ると、猫たちの姿は微妙に違っている。髪型や体型、雰囲気の些細な差異。それは、出会った頃から事故の直前まで、さまざまな時期の明日香の姿を切り取ったもののように思えた。


 やはり、僕以外には、彼女たちはただの猫に見えているらしい。

 小さな子供が裸の彼女の頭を撫でている光景は、さすがに背徳的だったが、それも数回見ているうちに慣れてしまった。


 どうやら僕は、現実をそのまま受け入れてしまう人間らしい。


 彼女が猫を助けようと道路に飛び出した瞬間も、車に跳ね飛ばされた瞬間も、人間がただの物体へと変わる瞬間も、僕は驚くほど冷静だった。

 救急車を呼び、到着するまで心臓マッサージを続けた。警察の事情聴取でも、担当の警官が訝しむほど、淡々と事実だけを説明した。


 葬儀でも同じだった。

 親族への対応を滞りなくこなし、死化粧を施され横たわる彼女の顔を見ても、冷たそうだなと思っただけで、それ以上の感情は湧かなかった。


 結局、僕は一度も涙を流さないまま、三日ほどの有休を消化し、驚くほどあっさりと日常に戻ってしまった。


 そのことに、僕は強い違和感を覚えていた。


 僕にとって、明日香は取るに足らない存在だったのだろうか。

 そんなはずはない、と頭では分かっている。にもかかわらず、身体は健常そのもので、同僚の冗談に笑い、好物を食べれば美味しいと感じてしまう。その自然さが、どうしても不自然に思えた。


 だから、街中の猫が明日香に見えるようになったとき、驚きよりも安堵が勝った。


 僕は、ちゃんと壊れることができた。

 僕は、ちゃんと彼女のことを大切に思っていたのだ。


 ベンチに座る僕のもとへ、彼女が近づいてくる。

 その頭を、僕はそっと撫でた。


 心地よさそうに笑うその顔は、明日香のそれと、まったく同じだった。

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