第7小節 いつもの朝、いつもじゃない日
朝のキッチンには、もう火が入っていた。
フライパンの上で、卵がじゅわっと音を立てる。油の匂いに、少し焦げたベーコンの香りが混じる。換気扇は相変わらず元気がなく、窓を開け放っているせいで、森の冷たい空気が入り込んできていた。
「……焼きすぎじゃない?」
白音が、まな板の前で言った。
「いや、これは“香ばしい”の範疇」
共史はフライ返しを振りながら、適当な理屈をつける。
「昨日もそれ言ってた」
「昨日はたまたま黒かっただけ」
「黒かった時点で失敗なのよ」
イヴォナはコップに牛乳を注ぎながら、ちらっとフライパンを見る。
「食べられるなら文句言わない」
「ほら、イヴォナは寛大」
「期待してないだけ」
淡々とした一言に、共史が笑った。
テーブルには、トースト、卵、ベーコン、即席のサラダ。派手さはないが、もう“寮の朝食”としては板についてきている。
拆音は、マグカップにインスタントコーヒーを注ぎながら、その様子を眺めていた。
——なんだかんだ、形になってきたな。
そう思う。
誰かが仕切るわけでもなく、自然と役割ができている。起きる時間も、食べる流れも、少しずつ揃ってきた。
そのときだった。
「そういえばさ」
共史が、トーストを齧りながら言った。
「授業、いつからだっけ」
白音が一瞬だけ考えてから、首を傾げる。
「……来週?」
「じゃない?」
イヴォナも、特に気にした様子はない。
拆音はコーヒーを一口飲み、カップを置いた。
その瞬間、リビングのテレビからニュースの音声が流れた。
『——本日、4月7日。県内の多くの学校で新学期が始まり——』
空気が、止まった。
「……」
「……」
「……」
共史が、ゆっくりとテレビを見る。
「……4月7日って」
白音が、壁のカレンダーに視線を移す。
赤丸がついた日付。
——7日。
「……今日?」
イヴォナが、小さく言った。
次の瞬間。
「今日学校じゃん!!」
共史が叫んだ。
椅子が倒れ、トーストが皿から落ちる。
「なんで誰も気づかなかったの!?」
「気づくもなにも!」
「だって今までと何も変わらなかったじゃん!」
「変わる前に確認しなさいよ!」
拆音は立ち上がろうとして、足をテーブルに引っかけた。
「わ、ちょ、待って制服——!」
「それ裏!」
「え!?」
白音はすでに鞄を掴んでいる。
「時間、あと何分?」
共史がスマホを見る。
「……3分」
「終わった!」
「走るしかない!」
4人は一斉に動き出した。
いつもの朝。
いつもの食卓。
その延長線上に、新学期は唐突に始まっていた。
窓の外では、何事もなかったかのように、春の風が木々を揺らしている。
*
森を抜けた頃には、もう誰も喋らなくなっていた。
息を吸うたび、肺の奥がひりつく。
足音だけが、やけに大きく響く。
学園の正門をくぐったとき、拆音ははっきりと違和感を覚えた。
「……静かじゃない?」
共史が言う。
あまりにも人気がない。
「もう、始まってるんだ」
白音が短く言った。
その言葉で、全員が理解した。
——完全に、遅刻だ。
*
校舎に入ると、空気が変わる。
ワックスの匂い。
反響する靴音。
どこか張りつめた静けさ。
「……人、いないね」
イヴォナが小さく呟く。
「全員、どっか集められてるんだろ」
共史が周囲を見回す。
廊下の突き当たりに、案内板があった。
《新高等部1年生オリエンテーション
第一ホール》
「……全員、ここだ」
白音が指さす。
「走る?」
「走るしかない」
四人は顔を見合わせ、再び駆け出した。
*
第一ホールの扉の前で、足が止まった。
中から、ざわめきが漏れてくる。
——人の気配が、はっきりと分かる。
「……ここだね」
拆音が言った。
「今さら戻れないし」
「じゃあ行くしかないじゃん」
共史が、ドアノブに手をかける。
一瞬だけ、間があった。
そして。
扉が、開いた。
*
視線が落ちてきた。
何百人分もの視線が、一斉にこちらを向く。
ホールは広かった。
段状に並ぶ席に、同じ制服の一年生がぎっしりと座っている。
壇上には教員。
その前で、四人は完全に浮いていた。
「……」
沈黙。
誰かが、咳払いをした。
「遅刻だな」
壇上から、低い声が響く。
教師の視線が、四人を順に捉える。
「寮名」
一瞬、迷ってから共史が答えた。
「……パッション寮です」
ざわり、と空気が揺れた。
小さな囁き。
名前を知らない者同士の、好奇と警戒。
「席につけ」
教師はそれ以上何も言わなかった。
四人は、空いている最後列へと向かう。
歩くたび、視線が追ってくる。
椅子に腰を下ろした瞬間、拆音はようやく息を吐いた。
「……最悪のスタートだね」
小声で言うと、共史が肩をすくめる。
「でもさ」
「なに」
「全員一緒でよかったじゃん」
イヴォナは何も言わず、前を見つめている。
白音は、静かにノートを開いた。
壇上では、オリエンテーションが再開された。
授業カリキュラムの説明。
近くに行われるイベントの説明。
これから始まる三年間の話。
拆音は聞きながら、胸の奥がざわつくのを感じていた。
——ここから始まる。
この四人で。
この寮で。
そしてきっと、
普通じゃない一年が。
ホールの天井から差し込む光が、ゆっくりと位置を変えていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます