第5小節 あれは夢?

朝の片付けが終わると、寮は一度、静かになった。


 白音はノートを抱えて部屋に戻り、共史はホーンケースを肩にかけて外へ出ていった。イヴォナは紙袋を持ったまま、どこかへ消えた。


 拆音は、一人、リビングに残った。


 テーブルの上には、空になったボウルと、牛乳の輪染み。拭こうとして、手が止まる。


 ——あれは、本当にあったことだったのか。


 教会。

 パイプオルガン。

 名前を呼ばれた気がした、あの低い響き。


 夢にしては、妙に細部を覚えすぎている。


 床の冷たさ。

 音が鳴る前の、張り詰めた空気。

 そして——目を覚ましたとき、胸の奥に残っていた、説明できない確信。


 拆音は、椅子に座り直した。


「……もう一回、行けるのかな」


 誰に向けたわけでもない言葉が、部屋に落ちる。


 もちろん、答えはない。


 一昨日、森で迷ったことは覚えている。

 気づいたら教会にいて、そして、気づいたら戻ってきていた。


 ——それだけだ。


 現実的に考えれば、疲れていただけかもしれない。

 慣れない寮、森の中、緊張と不安。

 そういう条件は、夢を見るには十分すぎるほど揃っている。


 それなのに。



 昼前、拆音は一人で外に出た。


 目的地は決めていない。ただ、足が自然と、森の方へ向かっていた。


 昨日、あの教会に辿り着いた道。

 ——正確には、「辿り着いた気がする」道。


 木々の間に入ると、空気が変わる。


 湿った土の匂い。

 遠くで鳴く鳥の声。


 けれど、どれだけ歩いても、それ以上の変化は起きなかった。


 音は聞こえない。

 オルガンも、第九も。


 ただ、森があるだけだ。


 拆音は立ち止まり、目を閉じた。


 あのときは、どうして歩けたのか。

 何を頼りに、扉を見つけたのか。


 思い出そうとすると、記憶は曖昧になる。


 輪郭だけが残って、肝心なところが抜け落ちている。


「……やっぱ、夢だったのかな」


 呟いた瞬間、風が吹いた。


 木の葉が擦れ、枝が揺れる。


 その音に、一瞬だけ、胸が跳ねる。


 ——違う。


 これは、音楽じゃない。


 拆音は、はっきりとそう思った。


 少なくとも、あの場所の音ではない。


 それだけは、分かる。


 夢だったかどうかは分からない。

 けれど、「同じではない」という感覚だけが、残っている。


 拆音は、ゆっくりと目を開けた。


 森は、変わらず森だった。


 けれど。


 心の奥で、何かが静かに、待っている気がしていた。


 ——呼ばれたまま、置いてきた何かが。


 それをどうすればいいのか、まだ分からない。


 ただ一つだけ、確かなことがある。


 拆音は、もう一度、あの場所へ行きたいと思っていた。


 夢であっても。

 夢じゃなかったとしても。

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