第5小節 あれは夢?
朝の片付けが終わると、寮は一度、静かになった。
白音はノートを抱えて部屋に戻り、共史はホーンケースを肩にかけて外へ出ていった。イヴォナは紙袋を持ったまま、どこかへ消えた。
拆音は、一人、リビングに残った。
テーブルの上には、空になったボウルと、牛乳の輪染み。拭こうとして、手が止まる。
——あれは、本当にあったことだったのか。
教会。
パイプオルガン。
名前を呼ばれた気がした、あの低い響き。
夢にしては、妙に細部を覚えすぎている。
床の冷たさ。
音が鳴る前の、張り詰めた空気。
そして——目を覚ましたとき、胸の奥に残っていた、説明できない確信。
拆音は、椅子に座り直した。
「……もう一回、行けるのかな」
誰に向けたわけでもない言葉が、部屋に落ちる。
もちろん、答えはない。
一昨日、森で迷ったことは覚えている。
気づいたら教会にいて、そして、気づいたら戻ってきていた。
——それだけだ。
現実的に考えれば、疲れていただけかもしれない。
慣れない寮、森の中、緊張と不安。
そういう条件は、夢を見るには十分すぎるほど揃っている。
それなのに。
*
昼前、拆音は一人で外に出た。
目的地は決めていない。ただ、足が自然と、森の方へ向かっていた。
昨日、あの教会に辿り着いた道。
——正確には、「辿り着いた気がする」道。
木々の間に入ると、空気が変わる。
湿った土の匂い。
遠くで鳴く鳥の声。
けれど、どれだけ歩いても、それ以上の変化は起きなかった。
音は聞こえない。
オルガンも、第九も。
ただ、森があるだけだ。
拆音は立ち止まり、目を閉じた。
あのときは、どうして歩けたのか。
何を頼りに、扉を見つけたのか。
思い出そうとすると、記憶は曖昧になる。
輪郭だけが残って、肝心なところが抜け落ちている。
「……やっぱ、夢だったのかな」
呟いた瞬間、風が吹いた。
木の葉が擦れ、枝が揺れる。
その音に、一瞬だけ、胸が跳ねる。
——違う。
これは、音楽じゃない。
拆音は、はっきりとそう思った。
少なくとも、あの場所の音ではない。
それだけは、分かる。
夢だったかどうかは分からない。
けれど、「同じではない」という感覚だけが、残っている。
拆音は、ゆっくりと目を開けた。
森は、変わらず森だった。
けれど。
心の奥で、何かが静かに、待っている気がしていた。
——呼ばれたまま、置いてきた何かが。
それをどうすればいいのか、まだ分からない。
ただ一つだけ、確かなことがある。
拆音は、もう一度、あの場所へ行きたいと思っていた。
夢であっても。
夢じゃなかったとしても。
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