第4小節 静かな朝

女子部屋は、朝の光が薄く差し込んでいた。


 古いカーテンの隙間から入る白い光は、まだ冷たく、床に落ちる影をはっきりと描いている。白音と共用している2段ベッドの2段目に、イヴォナは座っていた。


 膝の上にあるのは、ヴァイオリンケースだった。


 留め具の一つは歪み、革の縁はところどころ擦り切れている。ゆっくりと蓋を開けると、内部の布地がかすかに軋んだ。


 中にあるヴァイオリンは、もう“楽器”とは呼びにくい。


 胴の側面に走る亀裂。修復しようとした跡が、かえって痛々しく残っている。弦は外され、駒もない。弓は見当たらなかった。


 イヴォナは、それをじっと見つめていた。


 触れはしない。ただ、そこにあることを確かめるように。


 ——まだ、捨てていない。


 その事実だけが、胸の奥で静かに重みを持っていた。


 そのとき、彼女の下から声がした。


「……イヴォナ?」


 白音の声だった。


 イヴォナは一瞬、息を止めた。次の瞬間、慌ててケースを閉じる。蓋を押さえ、ベッドの下へ滑り込ませる動きは、あまりに速く、ぎこちなかった。


「……なに」


 少しだけ下に顔を出す。


 白音は、紙袋を抱えていた。昨日の売店街のものだ。持ち手のところが、少しだけ皺になっている。


「あのね。昨日、渡しそびれたから」


 白音はそれ以上、中を覗こうとしなかった。視線は、イヴォナの顔だけに向いている。


「学用品、買ってきたよ」


 紙袋を、そっと差し出す。


 イヴォナは一瞬、戸惑ったようにそれを見た。受け取るかどうか迷う間が、ほんの数秒。


「……ありがとう」


 小さな声だった。


 白音はそれを聞くと、ほっとしたように口角を緩めた。


「じゃ、下で。朝ごはん」


 それだけ言って、廊下へ出ていく。


 白音はイヴォナがベッドの上で何を慌てて隠したのか、聞くつもりはなかった。



 キッチンでは、ボウルにシリアルが注がれる音がしていた。


 拆音が、箱を傾けすぎて盛大にこぼし、慌ててスプーンで戻している。牛乳はすでに半分ほど入っていて、フレークが浮いたり沈んだりしていた。


「……これ、合ってるのかな」


 独り言のように呟きながら、砂糖を振りかける。少し多い気もするが、気にしない。


 その背後で、足音がした。


 振り返ると、イヴォナが立っていた。さっきの紙袋を胸に抱えたまま。


「おはよう」


 拆音が言う。


 一拍遅れて、イヴォナは頷いた。


 拆音はボウルをもう一つ取り出し、同じようにシリアルを入れる。牛乳を注ぐとき、少しだけ慎重だった。


「……食べる?」


 問いかけは、控えめだった。


 イヴォナは一瞬迷ってから、もう一度、頷いた。


 それだけで、拆音はボウルを差し出す。


 イヴォナは受け取り、テーブルについた。


 共史はすでに自分用に作り終えたトーストを齧っていて、白音はコーヒーを淹れている。誰も、大きな声を出さない。


 けれど、妙に静かすぎることもなかった。


 スプーンが器に触れる音。

 牛乳を注ぐ音。

 コーヒーの香り。


 その中に、イヴォナがいる。


 誰も何も言わないまま、朝は進んでいく。


 昨日までとは、ほんの少しだけ違う空気で。


 パッション寮は、まだ形にならないまま、ゆっくりと一つになり始めていた。

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