第3小節 悪魔の前
結局、イヴォナは見つからなかった。
売店街の端まで歩き、音楽棟の裏を回り、林へ続く細道を覗いても、金色の髪はどこにもなかった。夕方の光は鈍く、建物の影が地面に長く伸びている。
共史は、紙袋の持ち手を握り直した。
中に入っているのは、教科書とノート類だった。音楽理論、和声、合奏法、音楽史。譜読み用の五線ノートと、鉛筆、消しゴム。白音が選んだものだ。表紙の紙質や、書き込みやすさを確かめながら、慎重に。
——楽器店には、入らなかった。
入らなかった、というより、誰もそこへ向かおうとしなかった。シンフォニック=ポエム寮の生徒が言っていた言葉が気になっていたから。
*
パッション寮に戻ると、建物の中は静かだった。
灯りがついているのは、女子部屋の一つだけ。窓の奥で、カーテンがわずかに揺れている。
キッチンに入ると、鍋が火にかけられていた。どうやら誰かが鍋でカレーを作っているらしい。が、肝心の”誰か”はその場にはいなかった。
「火の用心だ」と呟くと共史が火を弱め、白音が食器を並べる。坼音はその上に炊飯器に炊かれていた艶々のご飯をよそった。
しばらくして、足音がした。
このご飯を作った張本人だった。
視線を上げないまま席につき、黙ってスプーンを取る。目元は少し赤いが、誰も何も言わなかった。
カレーの匂いが、ゆっくりと部屋に広がる。
食事は静かに進んだ。皿に触れる音、換気扇の低い唸り。会話はない。
坼音の頭には、昼の光景が残っていた。
——売店街で聞こえた声。
——笑いを含んだ言い回し。
——あの場に、楽器を持たずに立っていたイヴォナの背中。
誰も、それについて触れなかった。
*
食べ終わると、イヴォナは無言で立ち上がった。
自分の皿だけでなく、全員分を重ねてシンクへ運ぶ。水を出し、スポンジを取る。
水音が、一定のリズムで続く。
皿を洗う手つきは落ち着いていた。力は入れすぎず、急ぎもしない。最後に、蛇口の周りまで丁寧に拭く。
悪魔と呼ばれる前。その姿を今のイヴォナに見た気がした。
イヴォナは、洗い終えた皿を伏せ、布巾で手を拭くと、何も言わずに女子部屋へ戻っていった。
その姿めがけて三人が叫ぶ。
「ごちそうさまでした!」
ドアの閉まる音は、驚くほど静かだった。
*
しばらくして、共史が紙袋を持ち上げた。
「……明日、渡すか」
白音が頷く。
「はい。教科書」
坼音は、そのやり取りを黙って見ていた。
この寮では、言葉より先に、生活が進む。
キッチンには、水音の名残だけが残っていた。
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