第3小節 悪魔の前

結局、イヴォナは見つからなかった。


 売店街の端まで歩き、音楽棟の裏を回り、林へ続く細道を覗いても、金色の髪はどこにもなかった。夕方の光は鈍く、建物の影が地面に長く伸びている。


 共史は、紙袋の持ち手を握り直した。


 中に入っているのは、教科書とノート類だった。音楽理論、和声、合奏法、音楽史。譜読み用の五線ノートと、鉛筆、消しゴム。白音が選んだものだ。表紙の紙質や、書き込みやすさを確かめながら、慎重に。


 ——楽器店には、入らなかった。


 入らなかった、というより、誰もそこへ向かおうとしなかった。シンフォニック=ポエム寮の生徒が言っていた言葉が気になっていたから。



 パッション寮に戻ると、建物の中は静かだった。


 灯りがついているのは、女子部屋の一つだけ。窓の奥で、カーテンがわずかに揺れている。


 キッチンに入ると、鍋が火にかけられていた。どうやら誰かが鍋でカレーを作っているらしい。が、肝心の”誰か”はその場にはいなかった。

「火の用心だ」と呟くと共史が火を弱め、白音が食器を並べる。坼音はその上に炊飯器に炊かれていた艶々のご飯をよそった。


 しばらくして、足音がした。


 このご飯を作った張本人だった。


 視線を上げないまま席につき、黙ってスプーンを取る。目元は少し赤いが、誰も何も言わなかった。


 カレーの匂いが、ゆっくりと部屋に広がる。


 食事は静かに進んだ。皿に触れる音、換気扇の低い唸り。会話はない。


 坼音の頭には、昼の光景が残っていた。


 ——売店街で聞こえた声。

 ——笑いを含んだ言い回し。

 ——あの場に、楽器を持たずに立っていたイヴォナの背中。


 誰も、それについて触れなかった。



 食べ終わると、イヴォナは無言で立ち上がった。


 自分の皿だけでなく、全員分を重ねてシンクへ運ぶ。水を出し、スポンジを取る。


 水音が、一定のリズムで続く。


 皿を洗う手つきは落ち着いていた。力は入れすぎず、急ぎもしない。最後に、蛇口の周りまで丁寧に拭く。


 悪魔と呼ばれる前。その姿を今のイヴォナに見た気がした。


 イヴォナは、洗い終えた皿を伏せ、布巾で手を拭くと、何も言わずに女子部屋へ戻っていった。


その姿めがけて三人が叫ぶ。


「ごちそうさまでした!」


 ドアの閉まる音は、驚くほど静かだった。



 しばらくして、共史が紙袋を持ち上げた。


「……明日、渡すか」


 白音が頷く。


「はい。教科書」


 坼音は、そのやり取りを黙って見ていた。


 この寮では、言葉より先に、生活が進む。


 キッチンには、水音の名残だけが残っていた。

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