第2小節 現実ってやつ

 ジングシュピール寮の面々を見てからというもの、四人の歩幅は微妙に揃っていない。誰もが自分の足の運びを測りかねている。


 天使と呼ばれる音原琴音。

 凛として自信に満ちた指宿花琳。

 そして、白音の双子の兄、鍵宮黒音。


 彼らの姿が、買い出しへ向かう道すがら、何度も脳裏に浮かんでは消える。


「……新学期、か」


 共史が、独り言のように言った。


「始まったら、始まったで忙しくなるな」


「今も忙しいと思うけど」


 坼音が言うと、共史は笑った。


「今は“慣れてない忙しさ”。来週からは“逃げられない忙しさ”だ」


 白音が頷く。


「授業、課題、練習、演奏会。パッション寮は寮食も自前。生活と音楽の同時進行です」


「やっぱ前代未聞だよな……」


 坼音がぼやくと、白音は少しだけ首を傾げた。


「前例がないから、悪いとは限りません」


「白ちゃんは、そういうとこ強いよね」


「私はただ、事実を並べているだけ」


 その会話の後ろで、イヴォナは黙って歩いていた。


 昨日ジングシュピール寮の面々を見たときと同じ、少しだけ硬い背中。歩く速度は変わらないのに、どこか遠くを見ている気配がある。


 売店街に入ると、空気が一変した。


 インクの匂い、紙の擦れる音、金属製の譜面台がぶつかる乾いた音。学生たちの声が重なり、あちこちで名前が呼ばれ、笑い声が跳ねる。新学期を前にした購買は、いつもより少し浮き足立っている。


「まずは消耗品」


 白音がリストを広げる。


「教科書、新しい楽譜、譜面用ファイル、——」


「俺、リード見てくるわ」


 共史が金管用品の棚へ向かう。


 坼音はイヴォナの隣に立ち、楽譜用ファイルを手に取った。


「……これ、重いね」


「紙だから」


 そっけない返事。でも、逃げるような雰囲気ではない。それだけで、坼音は少し安心した。


 その時だった。


「……あれ?」


 背後から、粘ついた声がした。


 振り返ると、三人組の女子生徒が立っていた。制服の着崩し方、視線の運び方、距離の詰め方——全部が、慣れている。


 シンフォニック=ポエム寮。


 イヴォナを、かつて執拗にからかっていた連中だった。


「久しぶりじゃん、悪魔」


 笑いながら言う。


「まだここいたんだ」


「パッション寮?だっけ。問題児の寄せ集め寮でしょ?あはは、ほんとお似合い」


 坼音は一瞬、息を呑んだ。


 イヴォナの隣に立っていたはずなのに、空気が一気に冷える。視線がイヴォナに集中し、彼女の肩がほんの少しだけ強張るのがわかった。


「……何」


 イヴォナの声は低い。


「こっわ!悪魔ににらまれた。」


「ヴァイオリン、まだ弾いてるの?」


「弾けるわけないじゃん。ヴァイオリンないのに」


 言葉が、刃のように飛んでくる。


「やめろ」


 坼音が、思わず一歩前に出た。


 共史も戻ってきていた。白音も、いつの間にかイヴォナの反対側に立っている。


「ちょっと言い方きついんじゃないの~?」


 共史の声は軽いが、目は笑っていない。


「こ、公共の場所です。」


 白音が震えて言う。


「迷惑行為は控えてください」


 三人は一瞬、きょとんとした顔をしてから、くすくす笑った。


「なに? 守ってるつもり?」


「そんな悪魔に優しくしたって意味ないよ」


 その時だった。


 ——イヴォナが、いない。


 気づいた瞬間、背中が冷えた。


「……イヴォナ?」


 坼音が呼ぶ。返事はない。


 さっきまで、確かにそこにいた。

 声も、気配も、温度も。


「いない……」


 共史が周囲を見渡す。


 白音が、すぐに視線を巡らせる。


「……離脱が早すぎるっ。まったく」


「僕行くよ!」


 坼音は、考えるより先に走り出していた。


 売店街の喧騒の中、イヴォナの金髪は見えない。人の流れに紛れたのか、それとも——。


 背後で、共史の声がする。


「坼音!」


「先行く!」


 足音が響く。

 心臓が早鐘を打つ。


 まただ、と思った。


 気づいたときには、いなくなる。

 助けようとした瞬間に、消えてしまう。


 ——今度こそ。


 坼音は、人混みをかき分けながら、ただ前を見た。


 新学期は、もうすぐそこまで来ている。


 なのに、音は、また一つ、見えない場所へ逃げてしまった。

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