第9小節 旋律は、刃ではなく
ゴルトベルク変奏曲の指揮棒が、ゆっくりと空をなぞった。
五線が揺れる。
音が、降りてくる。
それは激しい音楽ではなかった。
力強くもない。
むしろ、驚くほど静かで、やわらかい。
——アリア。
母の腕に包まれるような、
眠りにつく直前の、意識がほどける感覚。
歪んだ音が、悲鳴のように掠れる。
だが、ゴルトは止めない。
音を重ねる。
寄り添うように、旋律を流す。
黒い影は、次第に輪郭を失い、
暴れることをやめ、
やがて、地面に沈み込むように崩れ落ちた。
——眠る。
それが一番近い表現だった。
音が、すっと街に戻る。
和音が、呼吸を取り戻す。
坼音は、しばらくその場に立ち尽くしていた。
「……倒した、の?」
ゴルトは、指揮棒を消しながら答える。
「ううん。
“元に戻した”だけ」
「元に……?」
「不協和音は、最初から“悪”じゃない」
ゴルトは、少しだけ言葉を選ぶ。
「完全になれなかった音。
居場所を見失った音」
坼音は、胸の奥がちくりとした。
「で、今使った力が
ゴルトは続ける。
「旋律は、音霊が持つ力。
自分自身の音楽を、能力として解放する技」
「能力……」
「その内容はね」
ゴルトは、指で軽く空を叩いた。
「その音楽が、どんな風に人に聴かれてきたか。
どんなイメージを持たれてきたか。
どんな主題を背負ってきたかで決まる」
眠り。
安らぎ。
包み込む音。
確かに、ゴルトベルク変奏曲には、そういうイメージがある。
「だから僕の旋律は、“眠らせる”」
ゴルトは淡々と言った。
「切らないし、壊さない。
ただ、休ませるだけ」
坼音は、言葉を失った。
戦いだと思っていたものが、
こんなにも優しい形をしているなんて。
「……音楽って」
思わず、零れる。
「人を傷つけるものじゃないんだ」
「傷つくこともあるよ」
ゴルトは否定しない。
「でも、本質はそこじゃない」
そういうとゴルトは来た道を戻り始めた。
坼音は、ゴルトの背中を見つめた。
自分には、あの指揮棒はない。
旋律も、使えない。
それなのに。
——自分は、ここにいる。
「……僕、ここで何をすればいいんだろう」
思わず零れた言葉だった。
ゴルトは、少しだけ間を置いて振り返る。
「それを知るために、君は呼ばれたんだと思う」
やがて二人は、再び教会へ戻った。
あの森の奥にあったはずの建物。
今は、世界の中心にあるように感じられる。
石の床に腰を下ろすと、
自然と静けさが降りてきた。
「ねえ、坼音」
ゴルトが言う。
「君、自分の“音楽”を覚えてる?」
「……音楽?」
「うん」
ゴルトは、少しだけ目を細めた。
「君が、音楽を好きになった日」
胸の奥が、どくりと鳴った。
思い出そうとしてこなかった記憶。
避けていたわけでも、忘れたわけでもない。
ただ、
触れずにきただけの音。
「次は、それを見に行こう」
教会の奥で、
微かに、懐かしい響きがした気がした。
それはまだ旋律ではない。
けれど確かに、
坼音自身につながる音だった。
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