第10小節 音楽を好きになった日

その夜のことを、符楽森坼音ははっきり覚えている。


 窓の外は、夏の終わりだった。

 昼間に溜まった熱が、まだ家の中に残っていて、

 エアコンの風がゆっくりとカーテンを揺らしていた。


 時刻は、たぶん九時を少し過ぎた頃。


 坼音は畳の上に転がって、天井を見ていた。

 何もしていない。

 宿題も終わっていない。

 ただ、ぼんやりとしていた。


「……まだ起きてたのか」


 低くて、少し掠れた声。


 振り向くと、父――符楽森響が立っていた。


 ジャケットを脱ぎ、ワイシャツの袖をまくっている。

 昼間の仕事の名残なのか、少しだけ疲れた顔だった。


「眠くない」


 坼音は、素っ気なく答えた。


「そうか」


 響はそれ以上何も言わず、

 部屋の隅に置かれた古い棚の前に立った。


 ガラス扉の向こうには、黒い円盤が何枚も並んでいる。

 レコード。


 坼音は、あまり好きじゃなかった。


 音楽は、いつも遠くにあった。

 父と母の世界のもの。

 自分とは関係のない、忙しい音。


 響は一枚のレコードを取り出すと、

 静かにプレイヤーに乗せた。


 針が落ちる。


 ——ポツン。


 最初の音は、驚くほど小さかった。


 ピアノの音。

 派手でも、速くもない。


 ただ、一つ。


「……なに、それ」


 坼音が言うと、響は少しだけ笑った。


「ゴルトベルク変奏曲」


「また難しいやつ?」


「難しくない」


 響はソファに腰を下ろし、

 ゆっくりと息を吐いた。


「眠れない夜の音楽だ」


 音は、部屋に広がった。


 大きくもならず、

 押しつけてくることもなく。


 ただ、そこにある。


 坼音は、最初は興味がなかった。

 いつも通り、すぐに飽きると思っていた。


 なのに。


 気づけば、身体が動かなくなっていた。


 音が、胸に落ちてくる。


 叩かれるわけでも、引っ張られるわけでもない。

 そっと、置かれるような感覚。


 ——変だ。


 静かなのに、退屈じゃない。


 目を閉じると、

 知らない景色が浮かんだ。


 朝の光。

 まだ誰も起きていない家。

 布団の中の、ぬくもり。


「……ねえ」


 気づけば、坼音は口を開いていた。


「この音楽さ」


 響は、こちらを見ない。


「うん」


「生きてるみたい」


 一瞬、音が遠のいた気がした。


 響が、ゆっくりと息を吸う。


「……そうだな」


 その声は、少しだけ震えていた。


「生きてる」


 それ以上、言葉はなかった。


 ただ、音楽が流れ続ける。


 部屋の中の空気が、

 静かに、でも確かに変わっていく。


 坼音は、その夜、最後まで眠らなかった。


 眠くならなかったのではない。

 眠るのが、もったいなかった。


 音が、終わるのが、惜しかった。


 ——この音が、消えてしまうのが怖かった。


 翌朝、目が腫れているのを母に指摘され、

 「夜更かしは禁止」と怒られた。


 それでも。


 その日から、

 坼音は音楽を嫌いだとは思えなくなった。


 好きだ、と胸を張って言えるほどではなかったけれど。


 少なくとも。


 音楽が、生きていることだけは、信じていた。

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